熊本熊的日常

日常生活についての雑記

一本の線

2011年04月14日 | Weblog
山種美術館で浮世絵展を観てきた。今回の展示はボストン美術館の所蔵品から清長、歌麿、写楽を中心に構成されている。浮世絵には肉筆画もあるが、一般には錦絵の印象が強いのではないだろうか。本展も錦絵を中心とした展示である。

数百年の歳月を経てかなり退色しているとは言え、色鮮やかな美人画などは、現代においてさえ、色香が漂うものである。しかし、肌を表すのは墨の線で区切られた紙の地である。ただの紙面を一本の線が人の形に囲うだけで、そこに生き生きとした表情が生まれるというのは、目の錯覚が多分にあるとはいえ、驚くべきことだと思う。

よく、小説家の最高傑作は処女作、という話を耳にする。絵画や他の工芸にもそうしたところがあるのかもしれない。なにをもって「最高」というのか知らないが、創作活動を生業としていれば、日々相当な量の作品を制作することになる。作業を継続することによって蓄積されていく技量もあるだろうし、失うものもあるはずだ。何を蓄え何を失うかは人それぞれなのだろうが、その加減の按配が作品の魅力を左右するということはあるだろう。作品を制作しようと思って制作し始めた初期の頃の按配が最も良いという人もあれば、熟練を経た按配が良くなった人もあり、涸れてきていよいよ冴え渡って見えるようになる人もあるのだと思う。そうした技がある水準を超えると、更の紙面に墨で一筋の線を引くとき、その筆圧であるとか、位置であるとか、諸々の要素が相互に関連しあって、紙面に生気を与えるということではないか。

浮世絵版画の場合は肉筆原画を版木に貼り付けて彫るという作業が加わり、それに染料を乗せて刷るという作業がある。原画作家の仕事だけでなく彫師、刷師の仕事が加わるのだから、それぞれの技量が総合されて紙に生気が宿る。絵師、彫師、刷師それぞれの蓄えと喪失とが重なって一本の線になり、人物になり、風景になる。それは「誰の」ということではもはやなく、個性を超えて個性が生まれるということだ。

勿論、作品としては原画作家の名前でクレジットされることが示すように、原画の力が一番強いのだろうが、肉筆画と版画の大きな違いは、そこに宿る個性の数にあるような気がする。どちらがどうということではなしに、見た目以上の違いが背景にあるというところが面白いと思う。紙面を生き物に変える一本の線。その向こうに蓄積と喪失とそれに要した時間とが在る。その向こう側の世界というものを覗いてみたい。