熊本熊的日常

日常生活についての雑記

間合い

2011年04月23日 | Weblog
いつものように実家に行くと、震災直後にシステム障害を発生させた銀行から詫び状が届いていた。事務連絡などでよく使われる窓空き封筒ではない普通の封筒で親展扱いだったので、引落しされるべきものがあるのに残高が足りないというような問題があって、その連絡のようなものかと思い、手にしたときに少し緊張してしまった。貧乏生活というのは何事もなければ気楽で良いのだが、金融機関から封書が届くと条件反射のようにあれこれ心配事が頭の中を駆け巡るというのが情けない。開けてみたら厚手の紙に頭取名で通り一遍の侘びが書かれたものが一枚、事務的な連絡事項の記載された薄い紙が一枚入っていた。もう1ヶ月ほども前のことなので、意識の外に行ってしまったことだ。大きな組織ということもあり、発生した障害の規模も大きく問題解決に時間を要したということもあるのだろうが、なんとなく間が抜けた感じの否めないものだと思う。

電力会社の社長や総理大臣が福島県の被災者を慰問したタイミングもどうかと思う。仮に事故処理の経過やそれに対する対応が現状と同じであったとしても、もう少し早い時期に行っていたら、被災された方々の心証は多少なりとも違ったものになっていたのではないだろうか。ネットのニュースサイトに掲載された写真を見ただけの印象なのだが、取り巻きをぞろぞろと従えた姿というのもどうかと思う。巨大企業の社長とか総理大臣という立場上、警備の都合などもあるというのは理解できるが、これでは土下座で頭を下げてはいても、形だけのような印象が拭えない。少なくとも、問題解決へ向けての陣頭指揮を執るという意志とかリーダーシップのようなものを感じさせる絵姿ではないように思う。

一言で表現すれば、どれも間が抜けているのである。上に立つ当事者の感性もさることながら、取り巻き連中も人情とか心理といったものに疎い奴ばかりなのだろう。情だけで物事が動くものでもないのだが、物事を動かしているのは生身の人間であることは間違いない。その人間には感情というものがあるということを、人の上に立つ者が理解せずに、組織や社会が機能するものなのだろうか。ルーチンで回るものならば事務的な対応を集積した仕組みで支障は無いだろうが、不測の事態にルーチンは無い。そのとき組織やその仕組みはどのように維持されるのかということを考えるのが経営や監理というものだろう。仕組みの管理は馬鹿でもよいのだが、経営や監理はそれ相応の能力のある人が陣頭指揮に立たなければどうにもならない。間のわからないような輩を頂くと、その組織や社会を支えている人々は舐めなくても済んだはずの苦汁まで舐めることになる。

私は人付き合いが苦手で、物事の間というものにはいつも悩まされている。銀行からの詫び状を見ながら、適切な間を取るというのはつくづく難しいものだとの思いを新たにした。