熊本熊的日常

日常生活についての雑記

月曜休館

2006年05月15日 | Weblog
暇なので朝目覚めると「きょうはどうしようか?」と思う。静かな場所が好きなので、よく美術館に足を運ぶのだが、殆どの美術館は月曜休館である。自分の知る限り、都内で月曜も開館しているのは六本木の森美術館くらいだ。

示し合わせたように一斉に休館にしなくてもよさそうなものだと思う。確かに、週末は入場者が多いだろう。職員にとってはやるべき仕事も平日より遥かに多く、疲労困憊するにちがいない。「明日は休館だ!」と思えばこそ、週末の繁忙を乗り切ることができる、のかもしれない。展示されている作品も、週末は濃密な炭酸ガスと湿気に曝されるので、「ガス抜き」のような時間が必要なのだろう。

しかし、月曜は、たとえ開館したとしても入場者は少ないはずだ。週末の繁忙が月曜休館の合理的な理由にはならないと思う。

おそらく、美術館というものは開館時間に比例して赤字が拡大するのだろう。国立博物館や国立美術館も補助金を削減され、運営の効率化が求められていると聞く。まさか、利益をあげることを求められているわけではないだろうが、美術館事業は営利に馴染まない。

人は食べて寝るだけでは生きていけない。幸か不幸か、高度に発達した頭脳を持ってしまった以上、一人一人が心身の健康を必要とする。自身の成り立ちというものを知る上で、歴史は雄弁である。己が何者かということを納得しないと人は不安で生きることがままならないであろう。歴史や文化を知ることは、己を知ることなのである。故に社会の安寧秩序を確立するには国民の文化に対する関心を高める必要がある。国家という社会の秩序を守るという点において、文化振興は警察権力の整備に勝るとも劣らない施策なのである。

それにしても、美術館の休館日はなんとかならないものなのか。

必要なのは電話ではなく電話番号

2006年05月14日 | Weblog
携帯電話の通話料を知らせるメールが届いた。通話もメールも殆ど利用していないのだが、4,000円ほど請求される。転職して1年が過ぎ、携帯の必要度も明らかになってきたので、料金プランを基本料金が最も安いものに変更した。

自分にとっては、携帯も固定も電話の機械的な機能は必要ではない。どうしても電話をしなければならないことなど滅多にないし、重要な用件の電話がかかってくることも稀である。メールに至っては迷惑なものが多いので、発信アドレス指定の設定をしている。

しかし、世の中で生きるには電話番号が必要である。これがないと「信用」というものが得られない。社会というもののなかで生活を送るには自分というものをデータとして認知してもらわなければならないのである。電話番号以外にも、住所、勤務先、血液型、各種履歴、そして名前。こうした記号によって、人は属する社会との関係を表現し、その存在が認識されるのである。

電話を所有するコストは、身分証明書の発行手数料のようなものだ。それなら、一番安いものでいい、と思い、料金プランを変更した次第である。

ところで、ホームレスはどうしているのだろう?

「ブロークン・フラワーズ」

2006年05月13日 | Weblog
ビル・マーレイは、いつのまにこんなに渋くなったのだろう。少なくともここ数年、例えば「ロスト・イン・トランスレーション」や「ライフ・アクアティック」でもいい味を出している。

この作品のタイトルが意味するのは、かつては美しかったが、もはや枯れてしまった恋愛、その相手、自分自身、といったところだろう。作品のなかで主人公ドンの家のリビングに飾られた切り花が時間の経過とともに無惨な姿に変容していく様が印象的だ。

何事にも始めがあり終わりがある。過ぎてしまったことを悩んでみても始まらないし、やり直そうと思ってやり直せるものでもない。時間の経過とともに、状況は刻一刻と変化する。同じ時間を歩もうとするなら、今、この瞬間を共有していなければ、あっという間に別々の世界に入り込んでしまう。

ドンは仕事で成功を収め、何不自由無い生活をおくっている。若い頃には浮き名を流し、最近まで同棲相手もいた。しかし、仕事に成功したことも、色恋沙汰も過去のことである。彼の今は何をするでも無く陰鬱にすら見える。一方、隣人のウィンストンは大勢の子供をかかえ、仕事を3つも4つも掛け持ちして今を生きるのに忙しい。生活に追われているのだが、楽しげである。この対比も興味深い。

人生を愉しむのに必要なことは、目の前にいる人や物事に対する飽くなき好奇心なのだろう。しかし、それは誰もが持つ能力ではなく、ある種の才能でもあるような気がする。

ユニクロバーガー

2006年05月12日 | Weblog
ロッテリアで豆腐ひじきバーガーを食べた。トレイの上に敷かれた紙には、この商品についての説明が長々と書かれている。いろいろこだわりがあるらしいが、それはあくまで店の側の都合であって、消費者の利益にかかわるものではない。消費者の利益とは、おいしくて、食べた後に満足感が残ることである。別に、それが低カロリーであろうがなかろうが、食べたければ食べるだけのことである。薄着の季節を前にして、低カロリーを前面に訴えた商品が関心を呼ぶとでも考えたのだろう。

肥満について思うことは多々ある。身近にも絶望的な肥満人がいるので、肥満のメカニズムは十分に理解しているつもりである。しかし、この話題は読む人を不愉快にするかもしれないので、ここでは書かない。

ここで言いたいことは、市場というところでは、能書きではなく結果だけが求められるということだ。今、目の前にある商品が全てなのである。そして、この豆腐ひじきバーガーはおいしいけれど見た目が悪すぎるのである。食べた時に貧しい気持ちになる。これでは売れないと思う。

あるコンビニの商品モニターをここ1年ほどやっているが、「見た目」というのはかなり意識されている。当然のことだ。人は味覚だけで食べ物を味わうわけではないのである。飢餓状態におかれているならいざしらず、食べるという行為は食欲を満足させるだけではない。一緒に食べる相手との意思疎通の道具でもあり、一人で食べる場合でも、意識するとしないとにかかわらず作り手との交渉があるものだ。おいしく食べてもらおうと思って、精魂込めて作ったものは塩にぎりでもおいしいはずだし、おざなりの料理は、豪勢なフルコースでも満腹するだけで満足はしない。

いろいろこだわりはあるらしいが、おいしく見せようという意欲が感じられない商品は市場で淘汰されてしまう。栄養と価格だけでは外食産業で勝負はできないのである。

ユニクロが東京に進出したばかりの頃、「ユニクロのシャツは3日でダメになる」と噂されていたこともあった。当時、アナリストミーティングで、経営陣の人々は自社製品を着て登壇していた。商品について語るとき、彼等の表情には誇りがあった。

ロッテリアの経営陣は毎日毎食、自社製品を「あぁ、うまいなぁ」と思いながら食べておられるのだろうか?

一杯のコーヒー

2006年05月11日 | Weblog
一杯のコーヒーを飲むのに、道具を用意して、湯を沸かし、豆を挽き、抽出し、味わい、後片付けをすると1時間ほどかかる。後には満足感と、コーヒーの香りが残る。この全体の時間と空間がとても好きだ。

その昔、コーヒーはたいへん高価な飲み物だった。カフェに集う人々は皆裕福で、コーヒー片手に投資話などに花を咲かせていたのだろう。そうした会話のなかから商品取引所や保険会社が生まれた。現在の経済の仕組みはコーヒーが作った、と言えなくもないだろう。

今やコーヒーは日常の飲み物だ。しかし、その流通経路を辿ると非日常の世界がある。よく酒の蔵元を訪ねる旅のことを耳にする。例えば、映画「サイドウェイ」はワイナリー巡りの旅が物語の舞台である。たいへん長閑で平和な風景がそこに展開している。しかし、コーヒー農園を訪ねることは命がけである、こともあるそうだ。コーヒーが育つのは南回帰線と北回帰線の間にある地域だ。中南米やアフリカの産地のなかには政情不安なところも少なくない。農園に行くのに軍隊の護衛付きというところもあると聞く。気軽に飲んでいるものが、気軽に行くことのできない場所で作られている。

日々何気なく口にしているもののなかに、とてつもなく深い歴史がある。そんなことを少し覗いてみようと思った。

ブリヂストン美術館にて

2006年05月10日 | Weblog
出勤途上でブリヂストン美術館に立ち寄ったら、ちょうどキュレーターによるレクチャーが始まるところだった。テーマは「マティス」。マティスは私にとっては特別な画家である。どのように特別なのかは、別の機会に述べるとして、今日は「色彩の魔術師」と呼ばれた画家の作品をいくつか取り上げて、30分ほどのレクチャーを受けた。ちなみに、日本の美術館のなかで、マティスのコレクションが最も多いのがブリヂストン美術館なのだそうだ。

絵画には、描いた人、描かれた人や物の物語がある。ただ眺めているだけでも愉しいのだが、そうした物語を知っていると、同じ絵が違って見えてくるものだ。絵の背後にある物語をどれだけ認識できるかで、絵を観ることの楽しさも変わってくる。

同じことは、絵に限ったことではない。自分が見ている風景、付き合う人物、手にする物、身近なあらゆるものが、その対象についての知識の量や質によって違って見えてくるものだ。

生活の豊かさというものは、結局のところ、自分と周囲との関わりをどれだけ深めることができるか、ということにかかっているような気がする。

修行の日々

2006年05月09日 | Weblog
ヨガはいまだに苦行である。最もベーシックのクラスを受講しているのだが、なかなか「解放された」心境には至らない。最後に呼吸を整える場面があるのだが、ここに至るとようやくほっとする。週に一度という頻度が少なすぎるのだろうが、時間が経つのは速く、あっというまに一週間が過ぎてしまう。

尤も、週末の水泳が「気持ちいい」と感じられるようになったのはここ最近のことである。そのような心持ちで泳ぐことができるようになるまでに4年近くを要したということだ。

ヨガは始めてから4ヶ月。まだこれからである。

そもそも現金は必要か?

2006年05月08日 | Weblog
最近、「セキュリティの強化」と称してキャッシュカードに生体認証が導入されたり、ATMでの引き出し金額や引き出し回数が制限されたりするようになった。個人の日常生活で多額の現金を持ち歩かなければならない状況というものが俄に想像できないのだが、そもそも今の時代に現金は必要なのだろうか?

定期的な出費は自動引き落としやクレジットカードを利用すればよい。小額の決済にはエディやスイカをはじめとする電子マネーや、図書カードやQUOカードのようなプリペイドカードがある。日常の買い物にはクレジットカードでほぼ全ての用は足りてしまう。しかも、クレジットカードの多くには「ポイント」なるものが付いていて、利用金額に応じてポイントが加算され、貯まったポイントは金券などに換えることができる。お得だ。

但し、銀行口座間の資金の移動には、通常は手数料が賦課される。これは移動させる金額によって異なるが、一般には消費税込みで105円、210円、315円といったところであろう。この金額は大きいか小さいか? 普通預金に付く利子との比較で考えれば、けっこうな金額である。現在、一般には普通預金の金利は年0.001%だから、105円の金利収入を得るためには、金利に対する源泉税も考慮すれば、13,125,000円を1年間寝かしておかなければならないのである。預金保護の限度額を超えた金額だ。

それなら、カード類の決済や公共料金の支払口座を特定の銀行預金に集約してしまえばよい。しかし、その銀行が破綻したらどうなる? おそらくどうにもならないだろうが、気分が悪い。預金保護の観点から、口座は複数用意して、使い分ける必要があろう。それに、昔とちがって、銀行が様々な「キャンペーン」を行っており、上手く利用すれば優遇金利だのキャッシュバックだのを獲得できる。やはり、銀行間の資金移動は避けるわけにはいかない。

やはり、現金は手元にあるほうがよいらしい。それにしても、五十日(ごとうび)や連休前後のATMの混雑はなんとかならないものなのか?

日本語で生きるとは

2006年05月07日 | Weblog
片岡義男の「日本語で生きるとは」を読み返してみた。初めて読んだ時には、言語の特性とその影響に対する洞察におおいに感心したものだが、時間を置いて読んでみると、同じ内容の繰り返しの多さに辟易するところもあり、その主張にも素直に頷くことが出来なかった。

思考は言語を用いて行う。故に、言語の違いが思考方法や思考パターンの差異として反映される。それは、その通りだろう。しかし、思考や論理のパターンの差異は言語の違いもさることながら、個人差による影響がはるかに大きいのではないだろうか。同じ日本語を話す相手と理解し合えないことは多々あることだし、言語を異にする相手と友好関係を構築することもよくあることだ。むしろ、同じ言語を使うから思考パターンも同じと考えることのほうが、日常生活のなかでは不都合や不愉快を引き起こすことにつながるのではないだろうか。話が通じない相手に「変わり者」「馬鹿」などとレッテルを貼って、その相手を理解しようとする努力を放棄することは誰もが日常的に行っていることではないのか。

言葉が発想や行動に影響し、それが国民性を形成する一因になることは否定しないが、言語がすべてではないだろう。

コーヒーに凝る

2006年05月06日 | Weblog
最近、コーヒーに凝っている。先日、ついにミルを買ってしまった。しかし、豆はまだ一度も自分で購入したことが無い。これまでに淹れたのはすべて頂いた豆である。今は、焙煎した豆があれば、それを挽いてペーパードリップで淹れて飲んでいる。

実は4月のある日、突然、コーヒーがおいしいと感じたのである。よく行く職場近くのカフェでコーヒーを飲んだら、「!」と思ったのである。それで、その日、帰宅してからネットでコーヒー教室を検索したのだが、思いの外少なかった。そのなかで、たまたま翌日に開講という講座があり問い合わせのメールを出したところ、深夜にもかかわらず返事を頂いた。こういうのを縁というのだろう。趣味的な講座なので原則として月に1回の講義および実技指導があり、不定期でも講義と実技がある。これまでに2回参加し、抽出と焙煎を勉強した。

実技で使った豆と、たまたま友人にもらった豆があり、今は在庫に不自由がない。しかし、豆は鮮度が大事なので、在庫をしていてはいけない。ちょっとジレンマである。それでも冷凍保存をしているので、まだおいしい。特に、1回目の実技で使ったジェルジェルツーはおいしい。今日、そのジェルジェルツーを飲みきった。

無印良品にクレームを入れてみる

2006年05月05日 | Weblog
昨日、都内の無印良品でCDラジオを買った。無印良品はけっこう利用頻度が高く、個人的に使う文具はたいていここで購入する。普段利用する店舗は、店員の感じも良く、いつも気持ちよく利用している。たまたま昨日は普段利用しない店舗で買い物をした。ここは酷かった。店員は商品を知らず、何か尋ねると、いちいち別の店員に聞きに行く。その聞く店員の胸には「実習生」と書いてある。実習生に聞いてどうすんだ、と思う。

レジで、CDラジオを購入する時、本来なら商品の保証書に貼る販売店シールを客に渡さなければならない。昨日までフリーターしてました風のお姉さんは、そんなことはご存じないらしい。しかも、商品をビニールの袋に入れてよこした。商品の重みで取っ手の穴が伸びてきて、いつぶち切れるか気が気ではなかった。

そんなわけで、不満はいろいろあったのだが、とりあえず販売店シールを送ってくれと、無印のサイト経由でメールを出した。それに対し、早速今日、返事が来た。曰く、販売店に連絡したので、販売店からの連絡を待って欲しいとのこと。とりあえず返事をする、というクレーム処理の基本に忠実な対処である。さすがである。

ついでにローソンにもクレームのメールを送った。ローソンのハウスカードである「ローソンパス」を利用しているのだが、時々、このカードの事務処理方法をご存じないレジ係がいる。客に入会を奨励しておきながら、そのカードを扱うことのできない奴がレジに立っているというのは店舗運営として理解できなかったので、ローソンのサイト経由で採用担当係に「いったいどういう教育をしているのか」と尋ねたのである。こちらもすぐに返事が来た。具体的に問題のある店舗を教えて欲しいとのことだった。早速、教えて差し上げた。

無印もローソンもさすがに日本を代表する小売企業だと思った。これは皮肉ではない。

熊谷守一

2006年05月04日 | Weblog
熊谷守一美術館を訪れた。氏が1932年から亡くなる1977年まで居を構えていた場所に建てられた美術館である。コンクリートの打ち放しというスタイルは嫌いだが、装飾の無い場所に氏の作品や愛用品が飾られていると、それはそれで味わい深い空間に感じられるから不思議である。

先週、氏の「へたも絵のうち」という本を読んで、観てみたいと思っていた作品に生で対面することができた。「冬の海」「桃のある風景」「人物」「どろ人形」「夕暮れ」「仏前」「母子像」そして「白猫」。4号サイズの小品が多いが、絵はサイズではないと改めて思う。「夕暮れ」の説明に、これは自画像である、と書かれていた。自分もこんな人間になりたいと、しばし絵の前に突っ立っていた。

同じ時間はない

2006年05月03日 | Weblog
久しぶりに庭木の手入れをした。手帳を見たら昨年12月25日以来である。雨が降ったり、風が強かったりで、ほっぽらかしになっていたが、今日は穏やかな日和で、外の仕事にはちょうどよかった。今年の冬は寒かったせいか、丸4ヶ月何もしなかった割には、たいして荒れていなかった。草木の枝や茎を裁断しながら、すぎた時間の濃さを知るのである。

昨夜、トラッフルのシェフとも話をしたのだが、年により、季節により料理に使うことのできる食材は異なる。いくら農園と契約していても、毎期同じものが同じ量確保できる保証はどこにもない。季節は同じように巡っているかに見えるのだが、同じ時間というのは無いのである。

今年の冬が過ぎ、春になって、夏を迎える。さて、これから何が起きるのだろう?

HP 個人向けPCから撤退

2006年05月02日 | Weblog
PCの調子が悪いのでメーカーのサポートサービスにメールを出したところ、ハードの問題の可能性を指摘され、修理を勧められた。窓口に電話をしてみると、修理の見積もりに2週間ほどかかるという。仕事でも使うPCが2週間も使用不可能になることなど考えられないことである。要するにHPは個人のPCをサポートする意志が無いということである。恐らく、PC事業からの撤退の腹を固めているのだろう。

PCに限らず、長期間の使用を前提に考えられていない情報機器が多い。その時々の最新のものを買い、それを2年程で使いつぶしていくことで生活が便利になるのなら、それも仕方の無いことなのかもしれない。しかし、長期的に継続使用をしないということは、あれば便利だが無くても困らないということではないか。そんないい加減な商品が巷にあふれている。

あれば便利という程度のものは売れなくて当然である。それを売ろうというのなら、消費者の利便性をとことん追求するのが筋というものだろう。そいういうことがわからない人が多い。

雑感

2006年05月01日 | Weblog
いきなり真夏日になった。天候が変わりやすいのは湿度が低いせいだ。気温が7月下旬並みでも、5月の湿度ならそれほど苦痛ではない。暑くなったり寒くなったりが繰り返されてはたまらないが、季節の変わり目の一時的なことなら、それも風物詩である。

仕事帰り、駅のホームにたまたま発車間際のライナーが停車していた。ホームにあるライナー券の自動販売機で切符を買って乗車した。わずかばかりの区間だが、空いていて静かで快適だった。

通勤、特に深夜の駅や車内では不愉快なことが多い。しかし、先日の新聞には、過去30年の間に泥酔して保護される人の数は四分の一に減ったと書いてあった。失業者の数も一時より減少している。データと生活実感に乖離があるのは、私がそれだけ歳をとったせいだろうか。どこかに心安らかに暮らすことのできる場所はないものかと、心の底から思う毎日である。