熊本熊的日常

日常生活についての雑記

背水の陣

2008年07月16日 | Weblog
昨日、職場の管理職のアシスタントから、自分の部署の同じ職務を担当している人の名前を書き出すようにとの指示があった。早速、手元の担当一覧を見ながら名前を書き出して返信しておいた。書きながら、多すぎると思わずにはいられなかった。これはまずいことになるかもしれない。昨年の10月だか11月だかにも同じような経路で同じような問い合わせがあり、それに対応していた人が今年の2月に解雇された。今度は自分の番かもしれない。同じタイミングで解雇されるとすると、作業の指示から4-5ヶ月の間隔として、今年の11月か12月には解雇である。

今、解雇されたらどうするか。雇ってくれるところがあればそれに越したことはないのだが、年齢と技能を考えれば次の就職先がすぐに見つかるというのは奇蹟に近い。かといって、自分で何かを始めることができるかというと、こちらも同じくらい奇蹟的なことであろう。しかし、ここはなんでもあり、という心づもりであらゆる可能性を模索しなければならないのだろう。

昔、仲間と起業を考えたこともあった。結局、ビジネスプランを詰めきれずに頓挫したのだが、そのときの仲間は今もフリーランスで走り回っているらしい。ずいぶん前にもらったメールでは、この6月頃を目処に何か新しいことを始めると書いてあったが、どうしているだろう? 捨てる神あれば拾う神あり、などとも言う。いざとなれば、何事かを思いつくものなのかもしれない。今、こうして頭を抱えているというのは、本当に切迫した状況にないからかもしれない。客観的状況は十分すぎるくらいに切迫しているのだが、自己防衛反応によって意識の深いところで見て見ぬ振りを決め込んでいるのだろう。これではいけない。何か考えないと。とりあえず、雇用が確保されているうちに、やってみたいと思ったことはなるべくやっておくことにしようと思う。当面、週末毎に物見遊山に出かけて楽しい刺激を得ることにする。背水の陣である。

スクラップ

2008年07月15日 | Weblog
昔、仕事の絡みもあって、新聞や雑誌の記事のスクラップをしていた。仕事上の必要が無くなった後も、東京で暮らしている頃は、興味のある記事を職場のコピー機で縮小してA5版のノートに貼付けていた。こちらに来る時、未整理の記事とノートを持参したが、そのままになっていた。久しぶりにノートを開き、続きの貼付けをした。記事はちょうど去年の今時分のものである。

スクラップ自体は子供の頃にもやっていた。小学校に上がる前のことである。以前にも書いたが、乗り物が大好きで、鉄道の写真が載っている記事を切り取っては大きなスケッチブックに貼付けていた。新聞に鉄道の写真が掲載されるのは、多くの場合、事故とストライキの記事である。だから、スクラップの更新はそれほど進まない、はずなのだが、今眺めてみると驚くほど事故が多い。その写真が、当時の私の絵本代わりになっていたのである。ある風景が見る立場によって全く違って見える極端な例である。

スクラップの面白さは、ある程度時間を置いて読み直した時の発見にあると思う。記事の内容もさることながら、その記事を選んだ自分が、何を思っていたのか、ということを思い返すのも楽しい。

日経新聞の日曜版にある「美の美」というコーナーを楽しみにしていたのだが、去年の7月は「ラファエル前派の精神」と題して4回のシリーズで英国の近代絵画を取り上げていた。1回目と2回目でミレイ、ハント、ロセッティを特集し、3回目はその次の世代にあたるバーン=ジョーンズ、4回目がウィリアム・モリスだった。彼等の作品は勿論、ロンドンでじっくりと鑑賞することができる。私がロンドンに来ることが決まったのが昨年7月下旬だったので、この特集に何やら運命的な巡り合わせのようなものを感じたものである。

しかし、彼等の作品が特別好きというわけでもない。ただ、彼等の存在や画風は、当時の産業革命による中産階級の勃興という社会の変化と密接に関連している。なによりも、それまで王侯貴族や教会が中核的需要者であった美術品市場に新興中産階級が参入してきたことで、美術品に求められる主題や趣味が変容したことの影響は大きい。このことは、美というものが独自に存在するのではなく、それを感じる人間が創り出す虚構のようなものであるという側面を改めて示している。絵をどう見るかというのは、見る人の勝手なのだが、やはりそれが描かれた背景についてある程度の知識を持っておかないと、見えるはずのものが見えなくなってしまう。それは美術品に限ったことではないだろう。同じ物、同じ風景を見ていても、自分に見えているものが他人に見えているものと同じであるとは限らない。

いつものように、話がどんどん横道へ逸れていくのだが、要するに、この1年で、自分を取り巻く多くのことが変わったなと思ったのである。

琴線

2008年07月14日 | Weblog
琴線に触れる、という言葉がある。このようないかにも繊細な感覚は自分には無縁だと思っていた。最近、本を読んだり、絵を観たり、風景を眺めたりしていて、ふいに思考の地平がすうっと広がるという経験をするようになった。一方で、薄っぺらな内容の話にはついていけなくなった。結果として、孤独はますます深くなったが、それは決して荒涼としたものではなく、ぬくぬくと心地よいものだと思えるようになった。ちょうど、くまのプーさんが、大好物の蜂蜜欲しさに風船で木の高い場所にある蜂の巣にたどりついたような感じに似ている。蜂に襲われて風船は割れてしまい、プーさんは木の上に取り残されてしまう。しかし、うまい具合に上半身がその洞の巣のなかにすっぽり入り、好物の蜂蜜に囲まれて嬉しげなプーさんの様子は、良書に出会った時や愉しい場所を見つけた時の心情に似ていると思う。文字通り自分だけの世界にトリップするのである。生活があるから、いつかはその場所を離れ地に足をつけなければならない。それはわかっているのだが、ぐずぐずと快楽に浸っていたい、そんな感じである。

ひとりの時間というのは大切にしたいが、琴線に触れる相手というのも何人か身の回りに確保しておかなければならないとは思っている。会社勤めをしていると、人間関係はどうしても同業の人が多くなってしまう。それはそれで良いのだが、そうした人々との会話の内容が、職場や仕事の話だけというのは聞いていて辛い。若い頃なら、それも新たな見聞のひとつとして楽しく拝聴できた。しかし、今となっては、そのような話は刹那的に感じられて、自分の問題として捉えることができない。もう気持ちは勤め先を離れ、死ぬまでの時間をどう生きるかという方向に向いている。この期に及んで「世間」だの「普通」だのを気にする奴は目障りだ。中途半端な関係は、もういらない。自分というものをしっかりと持った人に出会いたいと切に思う。

呆気ない夏

2008年07月13日 | Weblog
東京はこれからが夏本番なのだろうが、ロンドンは7月に入って肌寒さを感じる日が多くなった。今朝はついに室温が20度を下回った。さすがに日中は24度くらいになる。5月6月と比較的天気にも恵まれていたが、先週は雨の日が多かった。それまで上着なしで通勤していたが、先週からハイキングジャケットの裏地を外して着ている。地下鉄の駅構内や車内では、上着を着ていると少し暑く感じるが、外はこれでちょうどよい。夏至を過ぎたとはいえ、まだ日は長く、朝早くから夜遅くまで明るいが、これから冬至へむけて日はどんどん短くなる。夏は呆気なく終わった。

先日、コーンウォールに遊びに行った時、それほど暖かくもないのに海で遊んでいる人たちが少なからずいることに驚いたが、今を逃しては水と戯れる時が無いということなのだろう。だからといって、無理に肌を焼いたり水に入らなくてもよさそうなものだが、冬が長いので日に当たる感触とか水の肌触りに本能的に喜びを感じるのかもしれない。

私は夏は好きではない。夏が嫌いというより、暑いのが嫌なのである。今は都内を走る電車もバスも冷房が付いているのが当り前だが、私が高校生の頃までは冷房車が走っていない路線があったし、社会人になってからも地下鉄には冷房のついていない車両が走っていた。そんな過酷な乗り物を自分が利用していたという事実が信じ難い。そういえば、自分の家にエアコンが入ったのは中学1年の時だ。12年間もあの夏にエアコン無しで耐えていたこともやはり信じ難いことだ。だから、夏は呆気なくてちょうどよいのである。今、東京の天気をウエッブ上で見たら最高気温33度とあった。来年の夏を想像しただけでげんなりしてしまう。

備忘録 Dover

2008年07月12日 | Weblog
早起きして、Doverへ行って来た。地元の駅を6時33分に出る電車に乗り、London Bridgeで7時8分発のMargate行きの電車に乗り換える。Dover Prioryにはほぼ定刻通り8時58分に着いた。

駅は町の中心から西へ外れた場所にある。今回、ここを訪れた目的は白亜の崖を見ることなのだが、その崖は町の東にある。まずは、町の中心部を通過しなければならない。朝、シリアルとバナナを食べてから住処を出たのだが、少し小腹が空いた。マックやケンタでもよいのだが、どうもああいう系の食べ物は好きになれない。なんというのか、食べていると妙に寂しくなるのである。食事というのは、食べたら元気がでるものだろう。あのファーストフードというのは人間の尊厳を奪うような気がしてならない。そう思いながら歩いていると、「Breakfast」という看板を出しているパブがあった。

The Eight Bellsという名前のそのパブは、店先にテラス席を設けてあり、いくつかのテーブルには常連と思しき老人たちがコーヒーや紅茶を飲みながら新聞を読んでいる。そうしたテーブルの間を通り抜けて店内に入り、カウンターのお姉さんに「朝ご飯が食べたいんだけど。」というと、大か小か?と尋ねるので、迷わず「小」にする。飲み物は紅茶。所謂「Full English Breakfast」というやつだが、この店はトーストの代わりにハッシュポテトがつく。料理が運ばれてきて皿の上を見たとき、思わず「えー!朝からハッシュポテトかよ!」とのけぞりたくなった。気を取り直して、皿の上のものを全て平らげ、紅茶に思い切りミルクを加えて、一息つく。このEnglish Breakfastの「English」を特徴付けているのはソーセージだろう。この味は英国でなければ味わえないと思う。旨いとか不味いとかいうのではなく、これこそ英国的な味だと思うのである。さらに言えば、このソーセージを一口大に切って、その断面に同じ皿の上にあるベークトビーンズを絡めると、なお一層英国的になる。自分が今どこにいるかなどということを意識することはあまりないのだが、このビーンズとソーセージを食べている瞬間だけは否応なく、「おっ、そうか、今、イギリスか。」と思う。

腹が膨れたところで、再び歩き始める。町と崖の間にDover Castleがあるのでついでに立ち寄ることにする。町と崖の間、というより、城があるのは白い崖の上であり、このあたりから東に向かって白亜の崖が続くのである。市街から城に向かってCastle Streetという細い通りがあるが、ここにはB&Bや小さなホテルが軒を連ねている。こうした家並が途切れて緑が深くなると同時に道路は上り坂になる。自動車が通る道はつづら折りで城のある高台を登るが、歩行者道は階段で一気に城の入口へ至る。

城の見学時間は午前10時からで、私が入口の料金所に着いた時にはまだ係の人がいなかった。道路には入場待ちの車が列をなしていた。そこへちょうど係の人が現れ、入場開始となった。私がこの入口から入場する今日最初の見学者である。入場料を支払う時、Wartime Tunnels Tourに参加するかと尋ねられたので、参加する、と答えると、その場でどこかへ電話して、何やら時間と番号を私の入場料の領収書に書き込んだ。10時20分から地下壕の見学ツアーに参加することになった。

Dover Castleが建てられたのは1180年頃だが、この地下に軍司令施設が建設されたのはナポレオン戦争の時である。その後、第二次世界大戦の時に現在の姿になり、1995年までその一部が使用されていたのだそうだ。地質が石灰質で掘削が比較的容易であるとはいえ、かなり大きな規模で、第二次大戦中はこの地下壕に海軍、陸軍、空軍の各司令部が置かれ、海軍中将バートナム・ラムゼイの居室や病院施設も設けられた。当然、ライフラインも完備しており、壕内の電話交換施設は、Dover市内の民間用設備をはるかに上回る処理能力を持っていたという。学生の頃、沖縄の豊見城にある海軍司令部壕跡を訪れたことがあるが、壕の歴史が比較にならないとはいえ、その施設としての充実の度合いの違いに愕然としてしまう。

戦争というのは外交の一環である。軍事組織や軍事施設・軍備を見れば、その国の外交姿勢、その背後にある国力が一目瞭然なのである、そうだ。このDover Castleの地下壕を見学して感じるのは、英国の国としての底力のようなものである。何百年にも亘って他国との緊張関係のなかで、自国のありかたを否応なく考えさせられていたであろう欧州の国の人々は、国際社会のなかでの立ち居振る舞いの感覚が日本人とは比べ物にならないほど研ぎすまされているのではないだろうか。英国も島国ではあるが、欧州大陸との地理的、政治的な距離という点では、島国である以前に欧州の一部であると思う。日本も朝鮮半島と近いとはいえ、その朝鮮半島はアジアにおける文化の中心とも言える中国圏のなかでは辺遠であり、英国とは比較にならないほど国際社会の緊張感が薄い場所であったと言えよう。

日本の近代化は、薩摩・長州を中核とする、それまではどちらかというと国家の傍流だった人々によって推進された。島国根性という言葉があるが、どこそこの国あるいは家の出身だから、というような他愛の無いことにこだわって物事を決めることの功罪が明治以降の日本の姿として具現化されているのだろう。薩長の出身だからといって、屑のような輩でも分不相応な要職に就くことができ、時代が激動のなかにあったが故に、それが薩長以外の人々に対しても「あんな馬鹿でも取り立てられるのなら、この自分が」という向上心を煽り、社会のダイナミズムを生んだという側面があったと思う。結果として、300年近い鎖国による歴史のある部分の空白を数十年という単位で挽回し、今日の日本があるのだろう。しかし、社会の変動が落ちつきはじめ、「屑でも要」という状況が固定化されるに及び、日本の国家としての舵取りが上手くいかなくなったことも事実だろう。それが太平洋戦争という国家的悲劇を生んだと言えると思う。

Dover Castleの敷地のなかに西暦50年前後に建設されたという灯台の遺構がある。つまり、当時この地はローマ帝国の一部であったということだ。これは英国最古の建造物のひとつに数えられるのだそうだ。イングランドの古名をアルビオン(Albion)というが、ローマ帝国の公用語ラテン語の「白い国」の意である。その「白」の理由は、このDover周辺の白亜の断崖だ。現在も浸食が続いているが、これは止まらないだろう。城の敷地には、このローマ時代の灯台跡に始まり、サクソン様式の教会、現在の城の原形となる12世紀頃の建物、19世紀の地下壕、1940年代に増設された地下壕がある。城の歴史が英国の歴史であり、見た目以上に興味深い場所である。

海から見れば、この城のあたりから東へ向かって白い断崖が続いているはずである。その一部はナショナル・トラストによって管理されている。尤も、ナショナル・トラストの管理は崖の部分だけで、ほんの少し内側は私有地である。よほどの事情がない限り、崖の上に建物を建てたりしないだろうが、その私有地とされる部分は一面の麦畑だ。既に穂が実りつつあり、遠目には緑がかった黄色の絨毯のように見える。

Dover CastleのConstable’s Gateを後にして道路沿いに15分ほど歩くとGateway to the White Cliffsという少し規模の大きい駐車場を備えたカフェ併設の案内所がある。多少の起伏はあるものの、この案内所を背にして右手が崖、左手が麦畑という径が続く。手摺も柵もなく、時々転落事故があるらしいが、それはもっともなことである。その径を1時間ほど歩くとSouth Foreland Lighthouseという灯台に着く。ここにはかなり昔から灯台が立っているのだそうだが、現在の建物は1843年に建てられたものである。1898年12月24日に世界最初の船舶無線がここで開始されたとある。

こうしてドーバー海峡を眺めると、やはり英国は欧州の一部なのだという実感が湧く。欧州大陸はすぐそこに見える。Dover Castleが立つ高台の足元にフェリーターミナルがあり、ひっきりなしにフェリーが往来している。埠頭ではフェリーが接岸すると、たくさんの大型トレーラーが吐き出され、それらが町に吸い込まれていく。その後に、埠頭に並んでいたトレーラーが動き出し、フェリーの中へと消えていく。フェリーが停泊している時間は30分くらいではなかろうか。着いたと思うと、出港していく。勿論、大陸との往来はフェリーだけではない。この海峡の地下にはトンネルがあり、鉄道による輸送もある。空路だってある。しかし、こうして実際に物の動きを目の当たりにすると、海峡の存在など取るに足らないもののように見えてくる。

それにしても、英国で暮らしていて不思議に思うのは、ロンドンに星の数ほどいる黒人やインド・アラブ系を、少しロンドンから離れると見かけなくなることである。以前にもこのブログに書いたかもしれないが、私が通勤に利用している地下鉄の乗客は明らかに白人より黒人のほうが多い。雨がひどい時などに利用するバスに至っては、乗客の8割近くは黒人だ。あるとき、ふと気になって数えてみたら、2階バスの1階部分に私を含めて23人の乗客がいて、このうち20人が黒人、私を含む残りの3人が東洋系で、運転手が唯一の白人だった。それが、コーンウォールに行っても、マンチェスターやヨークも、ロンドンから鉄道で2時間ほどの距離にある4月に訪れたHastingsも、そしてここDoverでも黒人を見かけないのである。インド・アラブ系も東洋人も極端に少ない。これはどういうことなのだろう?

メモ
Westcombe Park 0633発
London Bridge 0647着
London Bridge 0708発
Dover Priory 0858着
Dover Priory 1533発
Waterloo East 1704着
Waterloo East 1709発
London Bridge 1712着
London Bridge 1714発
Westcombe Park 1727着
以上の運賃 Cheap Day Return 25.40ポンド

期末試験

2008年07月11日 | Weblog
昔、勉強しないといって、子供が母親に叱られて泣いていたことがたびたびあった。あるとき、母親がいなくなってから子供にこんな話をした。

ある瞬間を取り出したとき、人には無数の選択肢がある。例えば今、勉強をすることだってできるし、外に遊びに行ってしまうことだってできる。戸棚のお菓子をたべることもできるし、好きな本を読むことだってできる。どれが正解ということはない。自分で選んだことの結果を自分で受けるというだけのことだ。勉強はしたほうがいいかもしれないし、しなくてもいいのかもしれない。物事を知っていることで世の中が豊かで興味深く見えるようになるかもしれないし、知らないが為に醜いものを見なくて済むことだってある。今、その人にとってどうすることが一番良いことなのか、決まった答えなど無い。だから、本当に相手のことを思えば、沈黙せざるを得ないことだってある。少なくとも、他人のことで饒舌になれるのは、無責任であるか無能力であるか、その両方であるか、いずれにしてもろくな奴じゃない。だから、口うるさい奴の言うことは聞かなくてもよい。

子供は「えっ?」というような顔をしていた。何を思ったのか知らないが、それから子供は俄然、強気になり、叱られても泣かなくなった。そして相変わらず学校の成績は悲惨なままである。3月に休暇で帰国して子供に会ったとき、ちょうど春休みに入ったところだった。
「期末試験どうだった?」と尋ねると
「英語が追試。数学も追試かと思ったけど、大丈夫だったよ。」
「また追試かぁ。追試好きだなぁ。」
「まぁね。」と悪びれもせず答えてみせた。

最近、自分が読んで面白いと思った本があったので、以前に読んだ同じ作者の作品と併せて、それらの本が面白かったという話をメールに書いて子供に送った。フィリップ・クローデルの「灰色の魂」と「リンさんの小さな子」である。先日、「リンさんの小さな子」が学校の図書室にあったので読んだといって、その感想を書き送ってきた。なかなかよくできた文章で、楽しみながら読むことができた様子が伝わってきた。これでひとり、私の良き話し相手が増えるかもしれないと思うと嬉しかった。

今日は期末試験の最終日である。今度も追試を受けることになるのだろう。授業料を負担する立場からすれば落第は避けて欲しいのだが、試験の成績ごときをいちいち気にするような人間にはなって欲しくないとも思うのである。

求む!同居人

2008年07月10日 | Weblog
フラットシェアとかハウスシェアといって、一軒の住宅を家族関係にはない複数の人々が共同で賃借する仕組みがある。以前このブログにも書いた通り、ロンドンに来て住む家を探し始めたとき、自分が支払うことのできる家賃を不動産屋に告げたら相手にされず、その代わりフラットシェアの情報サイトのURLを教えてもらった。欧米の映画を見ても、登場人物がフラットシェアの家に住んでいるというのは当り前のように描かれている。しかし、東京は、そうしたものが皆無ではないにせよ、まだ一般的とは言い難い。これは何故なのだろう?

勤務先に我が儘を言って、来年早々に東京へ転勤することになった。転勤が決まった後、最近になって多少事情に変化があり、急いで帰国する必要はなくなってしまったのだが、ロンドンはそれほど居心地の良い場所ではないので、当初の計画通りに帰国するつもりである。

ロンドンほどではないにしても、東京の家賃もなかなかのものである。離婚で相手方に渡した家のローンの支払もあれば養育費の支払もあり、なにかと物入りなので生活コストはできるだけ抑えたい。普通に安い物件を探すのが勿論主たる選択肢なのだが、フラットシェアなら同じコストでより条件の良いところに住むことができそうな気もする。理想を言えば、下宿がいい。

2003年の夏、日テレの連ドラで「すいか」というのがあった。私は大変気に入っていて毎週欠かさず観ていたが、視聴率は悪かったのだそうだ。このドラマの舞台が下宿屋なのである。女性専用だが、年齢制限は無さそうだった。下宿人たちが互いの領域を尊重し合う一方で、一つ屋根の下で暮らす者どうしの緩やかな連帯感が感じられる、という現実にはありえないような絶妙の距離感が観ているだけで心地よかった。

モネだけの花

2008年07月09日 | Weblog
Courtauld Galleryの螺旋階段を登って最初の部屋に入ると、正面のマントルピースの上に花瓶に生けられた花の絵がある。静物画としては大きいが、高いところにあるので、うっかりすると素通りしてしまうかもしれない。しかし、ひとたび視界に入れば、その絵からしばらく目が離せなくなってしまう。その花はワイルド・マロウというのだそうだ。薄紫の小さな花がたくさん咲いている。おそらく、窓から光が差し込んでいるのだろう。やわらかだけれど力強い光が側面斜め上方から、左から右に向かって当たっている。こんな花が部屋にあるだけで、満ち足りた気分に浸ることができそうだ。私はこの絵が大好きである。

説明書きによれば、これはモネが自分のアトリエに飾っていた絵だという。画家が自分のために描く作品とは何なのだろう? 画家は売る為に絵を描く。それが商売だから、描きたくない絵を描かなければならないことだってあるだろう。果たしてモネは、意図してこの絵を未完のまま手もとに置いたのだろうか? 完成させるつもりが完成できなかったのだろうか? 意図して手もとに置いたとしたら、それは何故だろう? この花の絵は1881年から1882年頃の作とされている。あの睡蓮の絵を描き始めるのは1890年頃からだ。モネは睡蓮の絵も存命中は公開せず、筆を入れ続けたという。商才にも長けた画家であったようなので、売り絵はそれとして描く一方で、自分の欲求として納得のいくまで描かずにはいられない作品というものもあっただろう。このワイルド・マロウは、10年経って睡蓮に姿を変えたということなのだろうか。

「売り絵」といえば、73歳の小林秀雄が72歳の今日出海との対談のなかで、このようなことを言っている。
「自己を紛失するから、空虚なお喋りしか出来ないエゴイストが増えるのだ。自分が充実していれば、なにも特に自分の事を考えることはない。自分が充実していれば、無私になるでしょう。それは当り前な事でしょう。それが逆になっている。手前が全然ないから、他人に見放されると不安になるでしょう。だから画家が売り絵を描くのも、文士が売り原稿を書くのも、みんな、あれは不安なんですよ。ただ金のためじゃないと思うね。寂しいんですよ。僕はそう思っている。」(「小林秀雄全作品26 信ずることと知ること」新潮社 220頁)
モネの花の絵とは全く関係のないことなのだが、小林のこの言葉をちょっと思い出した。

飲めや歌えや

2008年07月08日 | Weblog
洞爺湖サミットが開催されている。日経のネット版に「「豪華ディナー食べ食料危機語るとは」英各紙、G8首脳批判」という記事が出ていたので、その記事のなかに言及されていたインディペンデントとタイムズを買って当該記事を確認した。サンの記事についても言及されていたが、この新聞の記事は気にする必要がないので無視した。

インディペンデントは、私が手にした版では、8ページ目のほぼ9割をサミットの記事に充てていた。尤も、その半分は首脳夫人が並んで座っている写真であり、記事の量はたいしたものではない。タイムズはG8の記事として18ページと19ページを見開きで使い、18ページは英国関連の内容で、19ページが晩餐会についての記事だ。晩餐会の記事は半分が写真であり、御丁寧に晩餐会のメニューとワインリスト、そのメニューに対する栄養士のコメントが載せてある。そうした記事の要旨は、日経が書いているように、飢餓問題を討議するのにこれほど贅沢な食事をしていてよいのか、というようなことだ。英国での報道にはよく見られる書き方だが、やたらに金額の記述が登場する。何にいくら使った、その金があればこれだけのことが出来る、云々。この国の人は金にうるさい人が多いのだろう。確かに、金勘定をしっかりやらなければ、あれだけの大植民地帝国を築くことはできなかっただろう。

政府という公共の組織が資金をどのように使うかということは、正確かつ公正に公開され、国民の評価に晒されなければならない。しかし、サミットについて記事にすべきは、晩餐会の食事の話ではないだろう。宴会の写真に半面を割き、残りの半面を5段に切り、このうちメニューに1段、栄養士のコメントにも1段を使う。これが「Quality Paper」と呼ばれる新聞の紙面である。これを読む国民の知性の「Quality」が窺われるというものだ。こうした記事に続いて、インディペンデントでは、Thought of the dayという論説記事につながり、タイムズではジンバブエの現状に関する記事につながる。どちらも総じて情緒的な記事であり、語るべき内容があるとは言えない代物だ。紙やインクをはじめとして、記事を書き新聞として発行に至るまでに消費する莫大な物資には考えが及ばないらしい。その物資やコストでもっと意味のある紙面ができるのではないか。

勿論、新聞社は私企業なのだから、コストをどのように使おうが株主や債権者が気にすればよいだけのことかもしれない。ただ、報道にも伝えるべき内容というものがあるだろう。限られた紙面、時間枠で日々刻々と生起する出来事のなかから、何を読者に伝えるべきなのか、これらG8の記事にはそうした視点が感じられない。万が一、このような記事を書いている記者が環境負荷の大きな体型だったら、それこそ茶番だろう。

そんな歯牙にもかからぬ話を「英各紙、G8首脳批判」などと紹介する日本の新聞はどれほどのものなのか。新聞や雑誌の発行部数が低迷を続けて久しいが、内容がないどころか無責任なのだから、読者が離れるのは当然というものだろう。

China Design Now

2008年07月07日 | Weblog
昨日、Victoria and Albert Museumで開催中の「China Design Now」という企画展を観て来た。展示は大きく3つのコーナーから構成され、商業デザイン、服飾・雑貨、建築をテーマにしている。おそらく中国側にしてみれば、見違えるように整備が進んだ北京の街並に象徴される現代建築をアピールしたいのだろう。それはそれとして興味深いものであったが、商業広告、特に漢字の表意性とデザイン性に注目した広告作品が面白いと思った。漢字の持つ意味は予備知識がないとわからないので、この面白さは漢字文化圏に属する人にしか通じないかもしれない。

最近、中国に対しては国際社会のなかで政治的な逆風が吹いているように見える。急速に経済発展を遂げた国に対しては、それがどこであれ、殊に非欧米圏ならなおさらのこと、多かれ少なかれ逆風が吹くものである。中国の場合、長年に亘って東洋の歴史を牽引しており、それが今日の発展の基礎になると同時に障害になっている部分も無いわけではないだろう。直近100数十年は停滞局面であったと思われるが、その停滞があればこそ、大胆な発想の転換とそれによる経済発展につながったのではあるまいか。

ロンドンで生活するようになって改めて気付いたのだが、ここで暮らす中国系の人々は中国語を大切にしているようだ。コミュニティ紙の広告には、中国系住民向けとみられる北京語講座などもある。先日「semilingual」にも書いたような言語の重要性というものを、中国の人々は、過去の様々な苦難を通じて経験として認識しているのではないかと思う。自己の思考の軸をしっかりと捉えている民族というのは、国際社会が少しぐらい混沌としても、その波に飲まれて滅びてしまうというようなことがないように思う。複数の言語を使い分けざるを得ないような状況に置かれている国というのは、人口が少ないというような事情もあるかもしれない。しかし、自国の言語を捨て、大国の言語に依存するという選択を行うと、結局、その民族は大国のなかに埋没してしまうのではなかろうか。

今回の展示は少し物足りない印象がある。中国は広大な国なので、その様々な構成要素を「中国文化」などという言葉で括ることはできないだろう。が、その物足りなさの原因は、現代という時代によって醸成されたものの層が薄いということではないだろうか。文化大革命という文化の空白による傷がまだ完全には癒えていないということかもしれない。

「Yacoubian Building(邦題:ヤコービエン・ビルディング)」

2008年07月06日 | Weblog
主催者の不手際で字幕なしのものを観る羽目になってしまった。希望すればチケットを払い戻すこともできたが、私にとってはアラビア語も英語も似たようなものだろうと思い、そのまま観て来た。本作は、昨年東京で開催されたアラブ映画祭の出品作品で、事前にウエッブで日本語による解説を読んでいたので、なんとなく全体の流れはわかり、思いの外、楽しく観ることができた。

この作品は英国の植民地時代にカイロに建てられたヤコービエン・ビルディングという建物に住む現代のエジプトの人々の話である。ビルの中は金持ちが住んでいたり、事務所に使っていたりするのだが、屋上には勝手に移り住んできたと思しき人々がひしめいて住んでいる。この建物に暮らす人々のそれぞれの人生が、現代のエジプト社会のある側面を象徴するように物語が作られている。作品の構成は所謂グランド・ホテル方式だ。

言葉がわからないので、あまり多くは語ることができないのだが、登場人物、殊に金持ちの男性諸氏がことごとく欲望アブラギッシュという感じに描かれている。こんな作品を外国で上映してしまってよいのだろうかと、他人事ながら心配になってしまうほどだ。様々な社会階層の人々がひとつの建物で暮らすというところに、現代エジプトの社会を暗示させているとのことなので、ある程度は登場人物のキャラクターのある特質を強調しなければならないという事情は理解できる。それにしても分かり易過ぎはしないか? 貧困層出身の学生で、就職が思うようにできず、イスラム原理主義に走ってしまうというエピソードもある。これも、確かに、物事を単純化すればそのように描くことができないこともないだろうが、果たして原理主義とは本当にそういうものなのか、という疑問が湧いてしまう。

その原理主義運動に走った青年が、運動の一環として体制側の人物を暗殺するという場面がある。たまたまその暗殺対象が、学生デモで警察に逮捕されたときに自分の取り調べをした警察の人間だった。青年は暗殺実行の際に撃たれて倒れるのだが、その拷問のような取り調べの記憶がよみがえり、最後の力を振り絞って立ち上がり、その警察官僚に向かって銃を撃つ。そして倒れた相手に近寄り、執拗に銃弾を浴びせる。それは原理主義運動の大義を貫徹するための行為なのか、個人的な怨讐の発露なのか、微妙な表現である。どれほど立派な大義のある運動でも、その運動の主体はひとりひとりの人間である。当然、そこに個人の感情が入り込む余地がある。それが思考の合理性に多かれ少なかれ影響を与えるのは自然なことだろう。つまり、人間が主体である限り、そこには絶対的な善も悪も無いのである。青年が血まみれになりながら、拷問を受けた記憶を支えに立ち上がる場面に、正義というものの脆弱性を見る思いがした。

改めて断っておくが、映像と若干の予備知識だけでこの作品を語っているので、私の誤解が多分にあるだろう。あくまでも印象を語っただけである。それでも、161分とやや長い作品の割には、物語の展開がテンポ良く、言葉がわからなくても楽しく鑑賞することができた。

「Turtles can fly/邦題:亀も空を飛ぶ」

2008年07月05日 | Weblog
フセイン政権崩壊後、最初のイラク映画だそうだ。正確にはイランとイラクの共作で、タイトルは現地の言語なのだが、文字化けしてしまい、このブログに載せることができなかったので、やむを得ず英語のタイトルを記した。2005年に岩波ホールで公開された時、見そびれてしまった作品だ。今、Tate Britainで中近東を特集した作品展を開催しており、その一環で中近東を舞台にした映像作品を公開している。この作品の他には今や古典とも言うべき「Lawrence of Arabia(邦題:アラビアのロレンス)」、2007年3月に東京都写真美術館で公開された「Paradise Now(邦題:パラダイス・ナウ)」、やはり2007年3月にアラブ映画祭の上映作品のひとつとして公開された「Yacoubian Building(邦題:ヤコービエン・ビルディング)」の4作品が公開される。このなかから、今日「Turtles can fly」を観て来た。

人間であることを止めてしまいたくなる。人には欲とか我というものがある。人に限らず、生き物にはその生命を次世代に繋ぐという使命がある。自分の我を押し通していけば、当然、他者と利害が衝突することになる。人類の歴史は闘争の歴史であり、自然破壊の歴史である。しかも、その闘争や破壊は歴史の進展とともに規模が拡大している。やがては、自分の我のために自分自身を抹殺することになるのだろう。破壊や殺傷のための知恵を、なぜ闘争回避のために使うことができないのかと思う。個人どうしの争い事から国家間の戦争に至るまで、勝っても負けても当事者にとって得るものは何も無いと言ってよい。それは総論としては認識されている。だからこそ、我々の社会には様々な紛争解決の仕組みが用意されている。しかし、そうした仕組みは殆ど機能していない。人類に英知というものはないのか、と問いたい。

作品は冒頭から衝撃的である。少女の投身自殺のシーンだ。物語は彼女の死から3日ほど遡って始まる。舞台はイラク北部のクルド人難民キャンプ。主人公はそこで暮らす子供たち、なかでもリーダー格の少年サテライトと彼が恋心を寄せる新入りの難民アグリン。彼女が自殺する少女である。彼女はおそらく12歳くらいという設定ではないだろうか。しかし、彼女には息子がいるのである。このことも彼女の自殺に関係している。

この息子、たぶん1歳半くらいだろう。目は開いているが、おそらく何も見えていない。それよりも、彼の服が印象的だ。なんの変哲も無い子供服だ。胸のところに大きな熊の顔のアップリケがついているつなぎである。そのあまりにありふれた子供服が、この難民キャンプというあまりにありえなさそうな状況の中に置かれることで、この子が置かれている悲劇性が際立つように見えるのである。

難民の生活には未来がない。難民を受け入れてくれる国に渡り、そこで新たに生活を築く以外に未来がないのである。未来が無い集団には秩序が無い。大人も子供もない。生活力が唯一の価値だ。サテライトは機知に富み、テレビアンテナの設置やら地雷の除去、除去した地雷の販売から武器の調達まで大人顔負けの働きを見せる。子供たち、と書いたが、キャンプのなかの子供たちは、「子供」という範疇を超えて社会の一大勢力となっている。それを率いているサテライトは、もはや並の「子供」ではない。ところが面白いことに、サテライトも含めて子供たち自身に自分たちの力に対する自覚がない。秩序が無い、と書いたが、力に対する自覚が無い代わりに、子供であるという自覚はあるので、そこに大人に対する敬意が残っており、それが辛うじて秩序をもたらしているのである。そこが子供、と言ってしまえばそれまでなのだが、より普遍的に、我々の社会のなかで似たような状況が時として現れることがあるのではないだろうか。つまり、当事者が自覚している以上の権力を持つ集団、ということだ。勿論、その逆の悲喜劇もあるだろう。当事者が自覚しているほどには力の無い、ドン・キホーテ的な個人や集団というものである。

米軍が侵攻してきたときの難民キャンプの激変も興味深い。人がひしめいていたキャンプが殆ど無人と化すのである。それまで自分たちを抑圧してきたフセイン政権が崩壊したことを知った人々が、我先に近隣の町へ出て仕事を探すというのである。人々の不在が、生命力の力強さを語る場面だ。人の温もりの残る、誰もいないベッドが何とも言えない生々しさを語るのと同じかもしれない。

出演しているのが本物の難民なので、演技に関しては荒削りだが、普遍性のあるテーマを雄弁に語る作品に仕上がっている。あまりに露骨に人間というものを語っているので、観た後にやりきれない気分に陥ってしまうが、素晴らしい作品であることは確かである。

semilingual

2008年07月04日 | Weblog
辞書を引いてもsemilingualという言葉はない。しかし、少なくとも自分の身の回り日本人の間では、この意味するところが了解されている。二カ国語を自由に使うことのできる人をbilingualと呼ぶのに対し、どの言葉も中途半端な人をsemilingualと呼ぶのである。

考えるという行為は知覚を言語化し理解する営みである。たとえ複数の言語を運用できるとしても、思考に使うのはその人の主たる言語であるはずだ。言語の構造や語彙が異なるものを組み合わせていけば、間尺に合わない部材で組み立てた構築物が崩壊するように、どこかで必ず論理が破綻する。つまり、思考が停止する。主たる言語を適切に運用できないということは、思考能力に瑕疵があるということだ。瑕疵、というと、なにやら大袈裟に聞こえるかもしれないが、そもそも考えるという行為は容易なことではない。誰しも程度の差こそあれ、多少の瑕疵はあるだろう。しかし、semilingualと呼ばれる人々には、一般的な許容範囲を逸脱した瑕疵を抱える人が少なくないように思われる。

何年か前、日経新聞の「私の履歴書」にジャック・ウェルチが日本での事業のことについて書いた箇所がある。それによると、最初はコミュニケーション能力が重要だろうと考え、英語に堪能な日本人を採用したという。しかし、後にそれが誤りであるとわかった、と書いている。おそらくsemilingualを採用してしまったのだろう。

日本では、外国語、特に英語に対する憧憬のようなものがあるように感じられる。英語を運用できるということに、ある種のステイタスを感じる人も少なくないように見受けられる。西洋から輸入されたものを「舶来品」と呼んで珍重する風潮も数十年前までは確かにあったと思う。人には自分に欠落しているものを渇望する性向があるのだろうが、海外の文物を実体以上に尊ぶ習慣が依然としてこの国には残っているようだ。外国語を運用する能力というのは、特殊な能力であることには違いないし、そうした能力を持つ人は割合から言えば少数派なのだろうから、幾ばくかの存在価値はあるのだろう。

しかし、言語はそれ自体道具に過ぎない。それを使って作り出すものが無ければ、たとえ流暢に話すことができたとしても、その運用能力自体は意味を成さない。「月を指す指は月ではない」のである。

外国語の運用能力と知性との間に著しい相関があるとも思われない。現実には、外国語を運用できるという意識を持っている人の中に、その運用能力と知性とを混同している人が少なからず存在しているように見える。その誤解が悲劇を招いている事例も身近に見聞している。ただでさえ、人の自意識は他人による評価とはうまく重ならないものである。そのことが対人関係上の葛藤や障害の一因となるのはよくあることだ。その上さらに、外国語の運用能力にまつわる自意識の肥大化が加わればどのようなことが起るのか、想像に難くない。

須賀敦子の著作を読んでいて、海外生活がどれほど長くなっても、きちんとした教育を受けている人は、外国語を適切に自分の知性の糧にして、成長を続けることができるものだと感じた。と、同時に、所謂semilingual問題が思い浮かんだのである。

昔の名前を訪ねて

2008年07月03日 | Weblog
夏至は過ぎてしまったが、まだしばらくは日の長い時期が続くので、その間に週末を利用して見たいと思う景色を見ておこうと考えた。4月にHastingsへ行ってドーバー海峡に向かって切り立つ崖を見たのだが、やはり白いのが見たいと思う。それで、今度はDoverへ行ってみることにした。その白い崖は石灰岩でできており、石灰岩は白亜とも呼ばれるという。そういえば白亜紀という時代があった。そのような昔の呼び名でカンブリア紀とかデボン紀という英国の地名を持つものがある。

カンブリア紀というのは5億4,500万年前から5億500万年前頃の時代を指すのだそうだ。カンブリアといえば湖水地方として有名である。ここは一泊でハイキングに出かけてみるのによさそうだ。

デボン紀は4億1,600万年前から3億6,700万年前。デボンは20年前にも訪れたことがある。先日訪れたSt. Ivesなどの町があるコーンウォール州の隣の州である。Exeterという小さいけれど歴史の古い町の高台にあるB&Bに泊った記憶がある。今度訪れるとしたら、Exeterもよいけれど、田舎の農場のようなところも楽しいかもしれない。

カンブリア紀とデボン紀の間にオルドビス紀とシルル紀というのがある。どちらも地名ではないが、昔の英国に暮らした部族の名前から取ったのだそうだ。オルドビスはウェールズに住んでいたOrdovicesという古代ケルト系部族に因んだものだそうだ。シルルもウェールズにいた部族の名だそうだ。ウェールズというと、先日のSt. Ives同様に最果ての地というイメージが自分の中にある。だから、できればウェールズ南部の町よりは北部や中部の田舎を訪れてみたい。問題は交通の便である。

この夏は、そういう大昔の時代の呼び名の場所を訪ねてみようと思う。生憎、今週末は予定があるので、来週末から順次訪ねてみるつもりである。まずは白亜のDoverから。

一見の価値

2008年07月02日 | Weblog
仕事帰りにナショナル・ギャラリーに寄って「Radical Light」という企画展を観て来た。1890年から1910年にかけてのイタリアにおいて筆触分割法によって描かれた作品を集めた展覧会である。これは機会があれば是非観なければならない展覧会だと思う。

神々しい、という形容が思い浮かぶ。セガンティーニの風景画である。今回の企画展にはセガンティーニの「Alpine Meadows」「Spring in the Alps」「Return from the Woods」「The Angel of Life」「The Bad Mothers」「The Punishment of Lust」「Vanitas」が展示されている。会場に入ると、いきなり正面に「Alpine Meadows」が広がる。広がる、のである。なんでもない山岳地域の風景である。羊が放牧地に放たれていて、羊飼いの少年がまどろんでいる。それだけの風景である。しかし、その風景を眺めていると、そこに神というものが本当にいるのではないかと思わせるような気分になる。その同じ展示室には「Spring in the Alps」と「Return from the Woods」もある。「Alpine Meadows」ほどではないが、どちらの作品にも人の営みの尊厳のようなものを感じる。セガンティーニは風景を描きながら、実はそこに普遍的な人間の姿というものを追い求めていたのではないかとさえ思う。「Spring in the Alps」の右隣にウムベルト・ボッチォーニの「Roman Landscape or Midday」がある。何故か秋野不矩の作品を思い浮かべた。