熊本熊的日常

日常生活についての雑記

続 探索

2009年01月16日 | Weblog
昨日今日と賃貸物件を見て回っている。1月12日付「探索」にも書いたように、今の仮住まいの場所が気に入ったので、この地域で既に2つの物件を内見した。どちらも良いと思うが、もう1件ほど見てみようと思っている。このほかに、帰国前から注目していた地域を2箇所ほど歩き回ってみた。気持ちが既に現在の場所に傾いている所為もあるのだろうが、欠点ばかりが気になって、住んでみようという気持ちが起こらなかった。

2箇所の地域のひとつは、閑静な住宅街である。都心の繁華街に近く、その分、地元の商店街は寂れている。家族で住むには静かな場所というのは良いのかもしれない。なんとなく安心感があり、何事もなければ自分たちの生活の平和を実感できるような気がする。しかし、一人暮らしで、しかも夜勤という生活だと、住宅街というのは自分の住まいだけがブラックホールのような空白のようにも感じられて、かえって落ち着かないのではないかと思うのである。

もうひとつは、しばしばメディアにも取り上げられる古くからの下町商店街周辺だ。今回初めて歩いてみたのだが、メディアに取り上げられることが多い所為なのか、観光スポットのような雰囲気がないわけではない。周囲には歴史上の事件の舞台、著名人の住居跡のようなものも多い。たまにこうして歩くには楽しいが、暮らすとなると果たして快適なのかどうかわからない。また、谷あるいは低地になっていて、なんとなく生理的に違和感を覚えた。ただ、ここの商店街で偶然見つけた自家焙煎の珈琲専門店は良かった。その日に焙煎した豆を使っているので、雑味の少ない、おそらく人によっては物足りないと感じるような味になるのだが、そのぶん豆本来の持ち味が出ている。どのコーヒーも1杯1,000円前後だが、客の入りは良い。聞いたところ開店して4年になるという。主人とのコーヒー談義も楽しく、豆の話をいろいろ伺えるので、そうした付加価値も含めれば1,000円という価格は決して高くはないと思う。たぶん、この町に住むことはないだろうが、この珈琲店にはこの先何度も足を運ぶようになるかもしれない。

帰国して明日で1週間になる。そろそろ住む場所を決めないといけない。何の参考にもならないのだが、つい好奇心で国土地理院の都市圏活断層図などを買ってみたりしている。

鉄は熱いうちに…

2009年01月15日 | Weblog
以前にも書いたことがあるような気もするのだが、人は無意識のうちに現在の延長に未来があることを前提に行動していると思う。未来があるかないかすらもわからないというのに。

よく保険の営業員がセールストークとして、何歳でかくかくしかじかのライフイベントがあり、何歳頃には何があるから、いくらいくらの保険に入っておいたほうがよい、などと言う。確かに、統計情報としてはそういうことになるだろう。その統計の元になっている母集団が大きければ大きいほど、統計としての説得力は高くなるが、個人の生活にとって統計上の平均値にどれほどの意味があるのだろうか?鉄道が線路の上を、車が道路の上を走るように、個人が統計の平均値の上を生きるわけではない。社会規範という道が無いわけではないが、その時々で人には無数の選択肢がある。

「鉄は熱いうちに鍛えよ」というのは、本来、人は若いうちに鍛錬すべきである、というような意味なのだろうが、そこから発展して、物事を行うには機を逸してはいけない、というような意味でも使われる。「機」というものが与えられるものではなく自分で決めるものだとすれば、この言葉の意味はさらに拡散して、あるものはなんでも利用しよう、という解釈だってできるだろう。未来が不確実であるが故に、未来に備えて貯えを持つべきなのか、現在の充実を追求するべきなのか。現実はそうした諸々の組み合わせだろう。ただ、自分の年齢を考えれば、未来よりも現在という時間をより強く意識したい。

今また勤務先の株価が倒産危険領域に入り、個人的には第二第三の金蔓の確保という課題が急浮上してきた。これまでは海外にいることを口実に、火急の案件であるにもかかわらず具体的な対応を怠ってきたが、もうそういうわけにはいかない。なにができるか、どこまでできるか、それこそ鉄が少しでも熱のあるうちに、手を尽くさなければとは思う。

アブナイオヤジ

2009年01月14日 | Weblog
昨日が帰国後の最初の出勤日で、人事の手続きがもろもろあり、個人的な用件を済ませる時間がなかった。今日は役所に転入届を提出して住民票をつくり、晴れて形式上の身分が整った。その足で運転免許の住所変更を済ませて職場へ向かう途中、池袋の書店で注文しておいた本を受け取り、ついでにその近くの家電量販店で携帯電話を買った。いや、携帯電話は無料の機種を選んだので、「買った」のではなく「契約した」と言うべきだろう。

店に並ぶ携帯電話を見ていたら、店員が近寄ってきて「お探しの機種はありますか?」という。イメージとしては「らくらくホン」のようなものを考えていたので、「電話とメールさえ使えればいいんだけど」と答えると、それなら、ということで新規あるいは機種変更なら0円という機種を薦められた。なかなかカッコが良かったので即決した。いざ、購入手続きの段になって「機種変更ですか?」と聞かれたので「新規です」と答えた。「今まで持っているのとは別の番号ということですね?」というので「いえ、なにも持っていないんです」と答えた。すると、私の気のせいかもしれないが、その店員が少し緊張したように見えた。顔に「こりゃアブナイオヤジかもしれない」という少し不安の影のついた文字が浮かび上がってみえる。「今買ったら、いつから使えますか?」と尋ねると、最初「30分くらい」と言いかけて、「あ、いや、ご新規ですので審査がありますから45分程度をみていただければと思います」と言う。

ロンドンでも感じたことだが、今は携帯電話の番号がある種の身分証明のようになっているようだ。携帯電話を持っているのが当然で、それを持たないのは、何か特殊な事情があるに違いない、と思われてしまうような世の中になっているような気がする。ホームレスでも携帯電話を保有している人は少なくないらしい。それが社会との絆だと言って、大事にしている人もいる。

高校時代の現代国語の教科書に載っていた「最後の一片」というような題名の話をふと思い出した。舞台は第二次大戦中のポーランド。仕事帰りの男が、ポーランド人であるという理由でドイツ軍の兵士に身柄を拘束されてしまう。そして強制収容所に送られることになる。収容所へ向かう貨車のなかで、男はそこで知り合った老人からパンの切れ端をもらう。すっかり乾涸びて固くなっているが、老人が言うには「君はまだ若い。自分はどのみち先が無い。これまでいざとなったらこのパンを食べようと思いながら飢えに耐えてきた。君は生き延びることを考えなさい。」男は言われた通り、もらったパンを大切にポケットの中にとっておいて、「いざとなれば」と思いながら収容所での生活を生き抜いた。戦争が終わって解放され、何年かぶりに我が家へ戻る。家族も生き延びていて再会することができた。妻の顔を見た途端、安堵のあまりその場に倒れてしまう。その拍子に、男のポケットから一片の木切れが転がり出てきた。

このような極限状態でなくとも、人の命はそれを支えようとする意志が無ければ、生理的に問題がなくても絶えてしまう。現実がどうあれ、そこに自分と世の中とのつながりがあると信じる心が命を支えているという面もあると思う。しかし、私には携帯電話は単なる道具にしか見えない。電話番号やメルアド以前に生身の人間との人格的なつながりがなければ、上っ面だけの関係など空しく感じられる。やはり木切れではない、固くとも本物のパンが欲しいと思う。尤も、パンはやがて黴が生えて食べられなくなってしまうので、手間暇をかけてパンを作り続けなければならない。その手間暇をかけ続けることが生きるということだろう。

号泣

2009年01月13日 | Weblog
1月3日付「絶対尺度」のなかで触れた「君はなぜ絶望と闘えたのか」を読んだ。齢を重ねて涙腺がゆるくなっている所為もあるのかもしれないが、読んでいて涙と洟水がとまらなくなってしまうところが多く、時に号泣したくなるのをこらえながら読了した。

文章としてはジャーナリスト風の「売らんかな」的な書き方だと思う。この点だけで自分のなかに拒絶反応が生じてしまい、普通なら最後までは読み通せなかったと思う。しかし、その内容に惹き付けられてしまった。

妻子を殺害された人の、その後の犯人との闘いを追った内容だが、そこに見えるのは、その人の思考の歴史と、その思考に影響を与えた様々な人々の生き方である。そして、思考を極めて得た思想こそがなによりも強く生を支えるということを感じた。

小児科病棟での病人仲間の死、仕事や職場というものの在り方に確たる考え方を持つ職場の上司や検事、世の中にある数多の不条理。そうしたものとの関わりのなかで、命とか生きるということについての哲学のようなものを深めていく過程が興味深い。

なぜ読んでいて号泣したくなってしまうのか、生を支える思想がいかなるものなのか、残念ながら私の拙い文章力では、言葉を重ねるほどに事の本質から外れてしまいそうなので、ここに書くことはできない。ただ言えることは、人はひとりで生きているのではないということだ。多くの人との関係のなかで生かし生かされている。その「生かされている」ということを実感するのは容易ではないが、そういう感覚の有無によって、他人との関わり方が自ずと違ってくるのは確かだろう。

ちなみに、死刑制度に対する考え方は、この本を読む前後で変化はない。今も「絶対尺度」と同じことを考えている。

探索

2009年01月12日 | Weblog
さっそく仮の住まいの周囲を歩き回っている。ここは山手線沿線の旧街道沿いにある町だ。神社仏閣が多く、それらの間を埋めるように商店街がある。かなり飲食店が多く、それぞれにこだわりのある食べ物を売りにしていて、どれも食べてみたいものばかりである。

今日は遅く起きたので、朝と昼の兼用で、そうした店のなかから、たまたま目に入った甘味処で、蕎麦と豆かんのセットを頂いた。そばは平凡な味だったが、豆かんの蜜と豆はなかなかのものだ。聞けば、寒天も蜜も自家製で豆も選りすぐりの材料を使って作っているのだそうだ。午前11時頃に入ったので、店内は空いていたが、持ち帰りのカウンターには時折、近所の人と思しき客がやってくるし、11時半を回った頃には、次々と食事の客がやってくる。他の店もこんな感じなのだろうかと好奇心が刺激される。

帰国する前から、住む場所についてはいろいろ考えていた。いくつか候補地があり、仮住まいは下見も兼ねている。昨日の昼過ぎにここへやってきて、今日が実質的な初日だが、第一印象はすこぶる良い。商店街の賑わいがあり、少しそうした場所から外れれば静かな住宅街になるというバランスがいい。おそらく、客の賑わいほどに商売は繁盛しているわけでもないのだろう。飲食店や食料品店を別にすれば、回転の悪そうな商品を扱っている店も少なくない。明らかに廃業したと思われる店舗跡が自治体の「○○相談所」などという、とってつけたような看板を掲げて、シャッターを降ろさないようにしている努力が感じられる。しかし、国全体として高齢化が進展し、商店街がまるごと廃墟のようになってしまっているところは都内でも決して珍しくはない。ここは古くからの寺社があり、そこへの参拝客があるから、まだ恵まれていると思う。歴史があって人が集まる場所、しかも集まり過ぎない場所というのは、なかなかに奥行きの深いものがあり、暮らしていて楽しいのではないかと思うのである。商店街のなかにある不動産屋の広告にも目を通してみたが、家賃も手頃である。このまま、このあたりに落ちついてしまうかもしれない。

天気晴朗

2009年01月11日 | Weblog
今日の午前中に帰国した。この1年間でロンドンから東京へのフライトを利用するのはこれが3回目だが、やはり今回はこれまでよりも空席が目立つような気がする。東京に着いてみれば、やはり鉄道などの公共交通機関の清潔さと快適さが際立つ。

まずは散髪。さっぱりしたところで、実家に顔を出し、不在の間に溜まった郵便物の整理などをしているうちに夜になる。ロンドンにいても東京にいても、えも言われぬ不安感は同じだが、自分の国にいれば、取りうる選択肢の数は格段に違う。とはいえ、今日明日が休日で役所が閉まっているので、具体的にすぐにできることは限られている。とりあえず、目先の生活の確立を目指して、些細な課題をひとつひとつこなしていくだけのことである。

Nowhere Man

2009年01月10日 | Weblog
帰国の飛行機の中で読んだ朝日新聞にアルバニア人とセルビア人の夫婦の話が紹介されていた。ユーゴスラビアは、チトー大統領の時代には民族融合のモデルケースのような存在だったのに、冷戦構造が崩壊すると国家体制も崩壊してしまった。

内戦直前の1989年1月にユーゴスラビアのドゥブルブニクとモスタルを訪れた。この時すでに、経済は崩壊していた。年率200%とも300%ともいわれるインフレで、わずか1週間の滞在期間中、商店の値札が毎日書き換えられていた。町へ出かける時は、宿泊していた国営ホテルで必要な分だけ両替していた。何が原因でそんなことになってしまったのか知らないが、物事がうまくいかなくなると、その責任を押し付け合うのはどこでも同じことである。たまたまユーゴスラビアは多民族国家であったが故に、国家運営の失敗が、民族間紛争という形で表れたということだろう。

しかし、ひとたび紛争が発生すれば、その原因の解決は二の次となり、紛争当事者同士の勝敗が紛争の目的にすり替わってしまう。互いの憎悪だけが増幅し、相手を抹殺することで問題が解決されるという幻想にとりつかれてしまう。不思議なことに、それが国家規模に増幅され、戦争状態に陥ってしまう。太平洋戦争だって、日本が連合国に宣戦布告したのは、それによって守るべきものがあったからだろう。それが戦争末期には本土決戦などと言い出して、国土が焦土と化すまで戦争を止めることができなかった。

人間の社会というのは、本来、互いに足りないものを補い合うための仕組みであったはずだ。ひとりひとりがそれぞれの人生を真っ当に全うするために、それぞれができるだけのことし、互いに助け合いながら生きるためにこそ社会はあるはずだ。それが、どこでどう転んで排除し合う結果になってしまうのか。

報道を見る限り、昨年春頃から金融業界を中心に雇用削減の動きが広がり、それが不動産、小売、マスコミ、製造業と次々に波及している。ロンドンでタクシーの運転手と話をしたら、特にクリスマスの前後から客足が顕著に落ちていると言っていた。引越をお願いした日通の人も、日本人の引越自体にまだ大きな変化は見られないが、英国内の運輸業者はここ数ヶ月でたいへんな状況になっているようだと語っていた。おそらく、失業の拡大とともに、不満の捌け口を求めて社会不安の動きが顕在化するだろう。

どのような形で人々の不安や不満が爆発するのか知らないが、それが暴走するようなことがないことを祈るばかりである。昨日今日とロンドンではいくつかのデモがあったようだ。空港へ出かけるまでに時間があったので、宿の近くのハイド・パークを散策したのだが、公園周辺の道路にはデモによる通行止めの予告広告が貼り出されており、公園の一画ではデモの準備をする人たちがプラカードや横断幕などをトラックから降ろしていた。

続 最後の晩餐

2009年01月09日 | Weblog
今晩がロンドンでの最後の夜だ。宿とPaddington駅の間にフィッシュ・アンド・チップスの店があり、最後の夜はここかな、と漠然と思っていた。しかし、昼に職場の隣の席の奴がフィッシュ・アンド・チップスを食べていて、その匂いを感じていたら、それだけで胸焼けがしそうになってしまった。やはり、その土地の、どこでも食べることができて、おいしいもので締めるのがいいだろうと思い、インド料理にすることにした。

英国とインドの関係は深い。外見だけでは判断できないが、おそらく、もともとの国籍別の人口では、インド人がロンドンで一番多いのではないかと思われるほどである。どんな町にも必ずインド料理店やインド料理の持ち帰り店があり、郵便局の局員は何故かインド人が多く、スーパーのレジのおばさんもインド人であることが多い。エリザベス女王の戴冠式のパレードでも、先頭はインド人部隊だったし、一昨日の引越の日に、たまたまやってきた電力会社の勧誘員(こちらでは電力会社も選ぶことができる)はデリー出身だと言っていた。

私の勝手な意見ではなく、こちらで当り前に耳にする話として、ロンドンでおいしいものといえばインド料理、ということになっているのである。仕事からの帰り道、Paddington駅から宿へ向かう途中にあるThe Mughal’sというインド料理屋に寄った。間口はそれほどでもないが奥の深い造りの店で、ちょっと覗いたところでは、客の姿は1人だけだったが、中に入ると奥のほうから話し声が聞こえていた。ベジタリアン・ターリーというセットメニューのようなものを頼んだら、それは今はできないと言われる。ウエイターがベジタリアンか、と尋ねるので、そうだ、と答えたら、いくつかの料理を挙げて勧めてくれた。それでベジタリアンのビリヤニとカレー、マンゴージュースという定番中の定番のようなものを頂くことになった。特別おいしいというわけでもなかったが、ロンドンでの最後の晩餐にふさわしい内容だった。

ところで、インドは私にとっては大切な国である。

学生時代の就職活動の頃、自分自身の将来を描くことができなかった。どんな仕事をしたいとか、どんなふうに生きていきたいというようなことが、全く思い描けなかったのである。それで、とりあえずいろいろな人の話を聴いてみようと思い、少しでも引っ掛かるものがあれば、その企業を訪問して歩いた。その数は軽く50を越えた。仕事というよりも、会った人に対する好感度の高さから、いくつかの企業で最終選考まで進んだが、内定獲得には遂に至らず、当時の正式な就職活動解禁日である10月1日を迎えた。ろくに知りもしない仕事や会社なのに「是非御社で働きたい」などと、私には言えなかったのである。解禁日の時点で採用活動を行っているのは電機メーカー、証券会社のような大量採用を行っていた会社か、独自の採用スケジュールであったマスコミくらいしかなかった。

結局、証券会社に入ったが、それでよかったのかどうか、悶々とした日々が続いた。卒業も決まり、旅行にでも出かけようと思ったが金が無い。金が無くても行けるのは、当時は中国とインドくらいしかなかった。中国語は知らないので、インドなら英語が通じるだろうと思い、インドへ行くことにした。貯金をはたいて航空券を買い、交通量調査のような日銭を稼げるバイトでなんとか旅行に出かけるまでと旅行中の小遣いを稼ぎ、当座を凌いだ。

このブログの1985年2月と3月の分が、その旅行中につけていた日記を清書したものだ。インドを旅行して、結局、生きるというのは目先のことをひとつひとつ片付けていくことの繰り返しでしかない、という自分なりの結論を得た。人は産むことは選択できても生まれることは選べない。今、生きているのなら、その生を生きていくしかないのである。たまたま現代の日本という物質的に恵まれた社会に生を受ければ、そのなかでそれなりに生きるしかなく、仮にインドの片田舎で生を受ければ、やはり、そのなかでそれなりに生きるしかないのである。どちらにしても、その時々の課題があり、それをその時々の自分の能力で解決しながら生活を送る以外に選択の余地は無いのである。あるものはあるがままに受け容れるしかない。当然のことなのだが、その当然がわかっていなかった。それを納得できたのは、インドでの1ヶ月があったからなのである。

湯水

2009年01月08日 | Weblog
「湯水のようにつかう」というのは、「金銭を惜しげもなくむやみに費やすことの形容」と広辞苑にある。日本語で「湯水」というのは豊富にあるということを前提にした言葉であることがわかる。

今まで住んでいた家の浴室の湯は、栓を目一杯開いてもちょろちょろとしか流れなかった。昨日から安宿に移り、温かい湯をザーッと浴びることができるものと思っていた。ところが、ここのシャワーも元気がない。

ところで、日本は今でも湯水は豊富なのだろうか? 子供の頃に住んでいた埼玉県の県南地域にあった家は、水道水がおいしかったと記憶している。それが、同じ地域内の商工業地区内にある集合住宅に引っ越してからは、カルキ臭くて水道水をそのまま飲む気にはなれなかった。引っ越した当初は、竣工間もない所為で水がまずいのかとも思っていた。その集合住宅には今でも両親が住んでいるが、水は相変わらずまずい。おそらく、おなじような状況は日本のそこここであるのだろう。浄水器やそのフィルターはどこでも当り前に売られているし、スーパーには大きな水の自動販売機が設置されているところも多い。水道水をそのまま飲んでも、勿論、無害なのだろうが、「まずい」と感じるということは、そこに含まれる何がしかの成分を身体が拒否しているということではないのだろうか。口にする水だけでなく、浴室用の浄水器というものもある。これはアトピーの原因物質のなかに水道水の残留塩素があるからだそうだ。水の量は豊富なのかもしれないが、生活に使える水というのは思っているほど豊富ではないのか、人々の水の質に対する要求水準が高すぎるのか。

日本の降水量は年間約1,700ミリで世界平均の880ミリを上回っているものの、人口あたりにすると約5,100立方メートルで世界平均の19,800立方メートルの四分の一程度だ(出典:水資源協会「日本の水 2005」)。自然に恵まれ、「水と平和はタダ」と思っていてはいけないのかもしれない。確かに、自然が豊か、の割にはカロリーベースの食料自給率が40%という低水準にあるのは解せない。天気に恵まれることが少なく、平均気温も日本より低いここ英国の食料自給率は70%を維持している。どちらも産業構成に占める農業の割合は同じ程度だろう。

ない、と思っていたものが、実はあった、ということで大騒ぎになることもあれば、ある、と思っていたものが、実はなかった、ということで慌ててしまうこともある。まずは自分自身の現状認識が適切であるかどうか確かめておいたほうがいいかもしれない。

撤収

2009年01月07日 | Weblog
午前9時半頃に日通が来る。既に運び出す荷物はひとつの部屋に集めてあるので、それを前にして担当者と話をする。作業の人は総勢3名。いざ作業が始まれば1時間もしないうちに片付いてしまう。最後に書類を作成し、帰国後の手続きについて説明を受け、そうしたことも含めて1時間程度で家の中はハンマースホイの絵のようになった。ざっと掃除機をかけ、手持ちの荷物をまとめて最後のゴミ出し。手持ちの荷物のなかにはこちらで使いつぶすものもあるので、少し量が多い。

一部の荷物を、後で取りに来ることにして住処に残し、スーツケースと機内持ち込みのカバンをもって予め予約しておいたB&Bへ向かう。おそらく荷物の総重量は2つあわせて35キロぐらいだろう。スーツケースを持ち上げるのが大変なので、バスに乗らなくても済む経路を選び、最寄のSoutheastern鉄道のWestcombe Park駅へ向かって歩く。駅は高台にあり、ゆるやかな坂を昇らなければならない。坂の下にさしかかったところで、タクシーが前からやって来る。どうしようなかと思い、なんとなくタクシーの運転手のほうを見る。向こうもこちらを見ているようだ。そのまま擦れ違ったが、私の顔はタクシーを追う、向こうもスピードを落としてこちらを振り返っている。手を上げることなく、タクシーが停まった。タクシーのほうへ荷物を引き摺りながら歩み寄ると、運転手が窓を降ろす。「パディントン駅まで行く?」「行くよ」「153サセックスガーデンね」「わかるよ」というわけで、そのままタクシーに乗った。

B&Bにチェックインして、割り当てられた部屋はその建物の最上階、の上の屋根裏部屋だったようなところだ。日本式に数えれば5階になるが、古い建物で天井が高いので、もっと高さがあるだろう。繰り返しになるが、古い建物なのでエレベーターというものが無い上に階段は梯子のように狭い。これを35キロの荷物を持って登るのである。今回のロンドン滞在での最後の難関なのか、最後から何番目なのか知らないが、人の気配が無いのを幸いに、手荷物とスーツケースを別々に持って昇り降りすることにした。

ちなみ宿泊費は1泊68ポンドである。だいたいの相場として、ターミナルとなる駅周辺の宿は最低45ポンド前後である。パリに遊びに行くとき、朝早い列車に乗るのに駅近くの宿を取るのだが、宿泊サイトのリストのなかの一番安いのを選んで45ポンンドだった。一泊だけなら、とりあえずベッドとシャワーがあればよいので、それで十分なのだが、今回は3泊なので、多少の快適さも求め、普段は読みもしない宿泊サイトの各宿に対する宿泊客のコメントにもざっと目を通した上で、宿を決めたのである。しかし、古いながらも清潔で気持ちの良い宿である。

荷物を置いて、不動産業者へ向かう。退居の際の室内チェックを受けるのである。担当者が不在なので、代わりの人にお願いすることになっていたが、今日の午後ということだけで、時間まで決めておかなかったので、住処へ戻り、そこで1時間ほど待機することになった。その間に残っていた荷物をまとめ、本を読んで過ごす。家というのは、人が住んで初めて家になるのだなと改めて思う。家具や調度品を片付けてしまっても、人が住んでいると、その人の気のようなものが充満しているように思われる。同じように清潔で、同じような家具や調度品を並べた家でも、住む人によって、居心地が全く違って感じられると思う。それが何によるものなのか知らないが、なにはなくとも人が一番大事な要素であることは確かだと思う。

退居のチェックは無事終わり、敷金相当額の小切手を受け取る。不動産業者の人に車で駅まで送って頂き、宿へ戻る。時間は午後5時を回っている。部屋で荷物を開いたり、郵便や社内便で送るものを分類したりしていると、6時だ。少し早いが食事に出ることにした。

Paddington駅周辺は飲食店も多いが、これといったものがない。これまでロンドンで回転寿司に入ったことがないので、エキナカの回転寿司に行くことにした。行ってみたら満員で入れない。みんなどんなものを食べているのだろうと、客の背後から様子を見てみると、焼きそばとかカレーを食べている人がいる。寿司屋に来たものの、最近は生ものを食べる気がしないので、これはちょうど良い。とりあえず、駅まで来たついでに地下鉄に乗ってNational Galleryへ行くことにし、帰りにここに寄ることにした。

Paddingtonから地下鉄Bakerloo Lineで美術館のあるCharing Crossまで乗り換え無しで行くことができる。今夜も全館開館していて、よりどりみどりだったが、やはり最後はピエロ・デラ・フランチェスカ、マンテーニャ、ボッティチェリあたりで締めてみたい。それと、英国に敬意を評してジョージ・スタッブスの「ホイッスルジャケット」とコンスタブルの風景画はしっかりと感じておきたい。ほかにもいくつか見ておきたいものがあったのだが、なかには別の作品と入れ替えられてしまって観ることのできないものも何点かあった。わずかに1時間ほどではあったが、一応気が済んだので、Paddingtonへ戻る。

回転寿司は、さすがに客も少なくなり、従業員たちが交代で、客に混じって食事をしている。もう閉店が近いということだ。チキンカツカレーとみそ汁を注文し、ベルトの上を流れていたどら焼きを食べる。基本的に寿司屋なので、ごはんは寿司飯、つまり冷めたものである。そこにチキンカツとカレーが乗ったものが登場する。カツカレーは日本風の味で、やはり温かいご飯のほうがよいとは思うが、それでもおいしかった。

最後の晩餐

2009年01月06日 | Weblog
明日、現在の住処を引き払ってPaddington駅近くのB&Bに移る。この家で食べた最後の夕食は、Sainsbury’sで買った半調理品の酢鴨丼。酢豚の豚の代わりに鴨が入ったものである。ちょうど昨日で食材を使い切ったので、最後の晩餐は自炊ではなく、オーブンで温めるだけのものになった。

日曜の夜に本を箱詰めし、昨日の夜はスーツを箱詰めした。スーツは入社の時に着ただけで、あとは普段着で通していたので、スーツを持って来る必要は無かったのだが、置いておく場所がないので仕方なくこちらへ送ったものだ。今の仕事の前は、服装にうるさい会社に勤めていたので、一週間に毎日着替えるだけの量が夏冬ともにある。この先、スーツなんか必要なのだろかと思いつつ、クリーニングのビニールがかかったままのスーツを何着も箱に詰めた。

今夜はスーツケースに入れて自分で持ち帰るものを選び出し、残りの荷物を、船便で送るものとここで捨てるものとに分けた。本がここ1ヶ月で急に増えたので、思っていた以上に日本に送る荷物が多くなってしまった。それでも1年3ヶ月暮らした割には少ないほうだと思う。

今日の昼過ぎに日通から明日の引越の確認の電話が職場にあった。不動産業者とは、明日、敷金の返還を受けることで話はついている。しかし、公共料金系はさっぱり話が進まない。水道、電気、電話、インターネット、住民税それぞれにウエッブ経由で先月に退居の通知をしたが、一向に反応がない。今週に入って立て続けに連絡が入ったが、これから最終の請求書を送るなどと間の抜けたことを平気で抜かす。比較的まともに処理が済んだのはインターネットの接続料くらいだ。この国のインフラは、ハードもソフトも、どこか根本的なところに問題があるように思う。

今日、仕事からの帰り、通い慣れた道を歩きながら、もうこの風景を目にすることはないのだなと思ったら、なんとなく救われる気持ちがした。

英仏海峡冬景色

2009年01月05日 | Weblog
昨日一昨日がこちらで過ごす最後の週末だった。最後といっても、何か特別なことがあるわけもない。たまたま、このところ「津軽海峡冬景色」のメロディが頭の中を流れているので、海を見に行くことにした。

英仏海峡まではロンドンから鉄道で1-2時間の距離である。これまでにヘイスティングスとドーバーを訪れたのだが、どちらも楽しいところだった。今の時期は日が短いので、足の便の良いブライトンへ出かけることにした。ここはLondon Bridge駅からちょうど1時間である。

雲ひとつ無い好天で、放射冷却効果満点の極寒のなか、目指す海はあった。冬は太陽が地上をかすめるように移動するので、真昼でも早朝か夕方のようである。ここは古くから保養地として発展したところで、海に面してホテルが立ち並び、今はシャッターが下りているが、海岸には飲食店の屋台が並ぶ。ブライトンの風景というと、必ずと言ってよいほどに桟橋がある。以前から、その桟橋の上の建物が何なのか気になっていたのだが、ゲーセンだった。観光地の人寄せというのは、どこも同じものらしい。

桟橋の風景以外に何の予備知識もなく来てみたのだが、ロイヤル・パビリオンというかつての宮殿には驚いた。その一画だけがインドのようだ。もともとここに王室の夏の離宮があったのだが、ジョージ4世の時代に現在のようなインド建築にしたのだそうだ。入場料8.3ポンドを払って中に入ると、そこは豪勢な中華料理屋のようだ。外観がインドで中身が中国。19世紀の英国王室の、おそらく遊び心なのだろう。尤も、餅は餅屋ではないが、英国人が設計し建設したインド建築なので、本場インド人が造ったもののように長い風雪に耐えるものではなく、完成後10年もしないうちから雨漏りに悩まされることになったという。100年以上経た現在もなお、継続的な補修作業が必要なのだそうで、現に作業中だった。

英国に限らず、欧州全体として19世紀の芸術の世界や中産階級以上の人々の世界には東洋への憧憬のようなものがあったようだ。当時はインドや中国の文物を欧州へ持ち込むこと自体に相応の費用を要したであろうから、単なる美意識というよりも、そうした遠方のものを手しているという自己の経済力を誇示する目的もあっただろう。

夏場に海辺の保養地を訪れるというのも、やはり経済力がなければできないことである。意匠を凝らした宮殿だが、ヴィクトリア女王の時代にロンドンからの鉄道が開通すると、閑静な保養地は一転して賑やかな観光地となり、それを嫌った王室はこの宮殿を売却してしまったという。

保養地の意義、異国趣味、市場経済、繁栄と衰退の歴史、海の景色、これらをつなぎ合わせてみるとこの町になる。

モリスの作品

2009年01月04日 | Weblog
ウィリアム・モリスのことに興味を持っていて、その作品を改めて見たいと思っていた。ビクトリア・アンド・アルバート博物館に彼の作品が展示されているのを以前に見たことがあり、もう一度見たいと思って何度か足を運んでいるのだが、その一画が閉鎖されているということが続いていた。今日、ようやく見ることができた。

モリスの作品はLevel 4にあるBritish Galleries 1760-1900という区画のなかにある。これまでは「いちご泥棒」くらいしか見なかったのだが、よくよく眺めるとかなりの数の作品が展示されていた。この区画内だけで以下の17作品が展示されている。他の区画では、この博物館のカフェの一室がモリスによるデザインである。

1 ‘ARTICHOKE’ embroidered wall hanging (Designed 1877, Worked 1877-1900)
Design for ‘VINE’ wallpaper (1873-1874)
2 ‘VINE’ wallpaper as produced (1874)
3 ‘TULIP AND WILLOW’ furnishing fabric (Designed 1873, Printed from 1883)
4 ‘WILLOW BOUGH’ wallpaper (1887)
5 ‘TRELLIS’ wallpaper (Designed 1862, Produced 1864)
6 ‘STRAWBERRY THIEF’ furnishing fabric (1883)
7 The works of Geoffrey Chaucer (1896)
8 A book of verse (1870)
9 ‘TULIP AND TRELLIS’ tile (Designed 1870, Made 1870-1881)
10 ‘DAISY’ tile (Designed about 1862, Made 1862-1881)
11 ‘PRIMROSE’ tile (Designed about 1862, Made 1862-1875)
12 ‘PEACOCK AND DRAGON’ curtain (1878)
13 The bullerswood carpet (1889)
14 Cabinet painted by William Morris (1861-1862) (Designed by Philip Webb)
15 ‘LA BELLE ISEULT’ (1858) (Oil on canvas, William Morris’s only known painting)
16 ‘BIRD AND ANEMONE’ printed cotton furnishing (Designed registered 1881)
17 ‘WANDLE’ cotton (1884)

8のA book of verseは現在、日本の美術館に貸出中とのことで、現物を見ることはできなかった。

15の‘LA BELLE ISEULT’は婚約者であったJane Burdenをモデルに描いた油絵である。ロセッティの「プロセルピナ」とはかなり雰囲気の違う作品である。

このほか展示会場に設置してあるビデオで、モリスの壁紙の製作工程を解説していた。木版によるもので、30の版木と15色の染料を使い、乾燥工程も含めて全工程に4週間を要したのだそうだ。版木のなかには、現在も使われているものがあるという。

私はモリスの作品が好きなわけではない。ただ、昨年12月29日付「モリスのこと」に書いたように、彼の思想に興味があるだけだ。

絶対尺度

2009年01月03日 | Weblog
読んだ本や観た映画を紹介し合う仲の友人がいる。その人が「なぜ君は絶望と闘えたのか」について書いてきた。元旦に帰省したら実家にその本があったので読んだというのである。

死刑の是非というのは折に触れて大きな議論を巻き起こしているが、今のところ、日本では存続している制度である。死刑の是非以前に、刑罰とは何かというところから考える必要があると思う。結論から言えば、私にはわからない。

絶対的な善とか悪というものはあるだろうか? 人を殺すことは事情の如何にかかわらず悪いことなのだろうか? もし、そうだとしたら、人を殺したという理由で人を殺すことも悪いことだ、ということになるだろう。戦争下では、敵国の人間を殺すことは賞賛されるべきこととなる。殺す相手は兵隊だけではなく、銃後の一般市民でも同じことだ。もっと卑近な例を持ち出せば、嘘をつくことは悪いことだろうか? 人を救う嘘だってあるだろうし、人を絶望させる正直だってあるだろう。

善悪とは社会の文脈のなかで規定される尺度であろう。人間の行為それ自体に意味があるわけではなく、それが社会のなかに与える影響に意味が与えられるということだ。平穏な生活のなかで、突然命を奪われるようなことが許容されてしまうのなら、そこで暮らす人々の日常は不安と恐怖に満ち溢れ、人と人との間の信用に多くを依存する社会の仕組みが機能しなくなってしまう。その暗黙の安心を維持する方便として、善悪というものがあると思う。そして、より基本的な信用や信頼の枠組みは法律という明文化されたものによって構成するということだろう。

善悪や法律という社会規範を維持するには、それを侵犯することに対する罰則を設けることが最もわかりやすい方法なのだと思う。刑罰は、どのような侵犯行為に対しどの程度の罰則を与えるのが効果的か、という視点で設定されているのだろう。

社会の秩序を維持するというのが基本的な主旨なので、侵犯行為が明らかになり、例えば懲役刑を受けるようなことがあれば、「前科者」として差別的扱いを受けることもあり、そうした社会の眼も広義の罰則に含まれるだろう。しかし、侵犯行為者に更生の道を閉ざしてしまうことは、社会に不安要素を抱え続けるということにもなる。侵犯行為者に罰則を与えるだけでなく、その人を秩序の中に組み込む仕組みまで用意しないと社会秩序の維持という目的は達成されない。死刑というのは、その侵犯行為者に更生の可能性があるか否か、仮にあるとして、その人を社会が再び受け容れる余地があるか否か、というようなことを考慮したときに、そうした可能性を見出し難いという判断である。

人は誰でもその人なりの存在証明を求めていると思う。それが仕事であったり、趣味であったり、特定の人間関係であったり、というような他愛の無いことである限り何の問題も起らない。しかし、なかには他人のものを盗んだり、他人を傷つけたりすることでしか安心できない人というのもいる。常習犯と呼ばれるのはそういう人なのだろう。自分の思い描く世界が現実の社会と著しく乖離してしまっている人もいるだろう。一般の人々からみれば誇大妄想であったり大言壮語にしか思えなくとも、本人にとってはそれが「現実」なのである。時として、そうした誇大妄想が他人の財産を奪うことにもなる。詐欺行為のなかには、人を騙そうと意識したものも多いだろうが、誇大妄想の結果であるようなものも少なくないだろう。殺人犯についても、その犯罪の背後にあるものを慎重に分析しなければならないだろう。他人を殺すことでしか生きていくことのできない自我を抱えた人というのは、やはりいると思う。

正月からいきなり難しいメールを頂いてしまった。

夢の人

2009年01月02日 | Weblog
今日は暦の上ではただの金曜日なのだが、休暇中の人が多く、職場は閑散としている。まだ街全体にクリスマス休暇の余韻が残っており、至る所にクリスマスの飾り付けが残っている一方で、路地裏のゴミ集積場にはクリスマスツリーが捨てられていたりする。商店街は安売りで混雑しているが、品物が飛ぶように売れているという風でもない。いくら安くても、いらないものはいらないのだから、当然と言えば当然だ。

仕事帰りに市街へ出て、久しぶりにCDなどを見て回った。中学生の頃、初めて洋楽を聴くようになり、最初に買った洋楽のLPがビートルズのオールディーズだった。当時、レコード会社が「来日10周年」と銘打って盛んに彼等の作品を宣伝していた。宣伝していたのは、来日10周年だからではなく、それまで2,200円だったLPを2,500円に値上げした所為かもしれない。いずれにせよ、当時はテレビよりもラジオのほうが仲間内では流行っていて、ビートルズを話題にすることに自分の成長を感じたものだった。おそらく今では死語だろうが、「エアチェック」と言ってFM放送で気に入った曲を録音して楽しむということがかなり広く行われていた。それ用の雑誌もあり、私は「FMレコパル」というのを買っていた。そうした雑誌も貴重な大人の世界の情報源だった。

今でも、CD店の棚にはビートルズが大きなシェアを持っている。かなり最近まで彼等の音楽を好んで聴いていたが、今、こうして棚を眺めると、なんとなく哀愁を感じてしまう。それが何故なのかよくわからないのだが、CDと一緒に並んでいる写真集を手に取ると、なんとなく痛いものすら感じる。もうすっかり過去の人たちなんだと。

ビートルズが何故良かったかといえば、演奏が楽しげだからだろう。音楽だけ聴いていてもそう思うし、ライブ映像を見るとなおさらそう思う。仕事のありかたの基本がそこにあると思うのである。このブログのなかで何度か引用しているが、小林秀雄の「仕事が楽しみじゃなくて、一体仕事とは何だい」という言葉が脳裏に浮かぶのである。

憧れを持って空想していた大人の世界に身を置いてみれば、寒々とした現実に打ち拉がれることも少なくない。ビートルズにしても、解散後はメンバーやその遺族の間で訴訟事が頻繁に起こり、楽しげに見えていたものが幻影でしかなかったことを思い知る。それが人生と割り切れるほどに人間ができていないので、人生の折り返しを過ぎて、なおも執拗に楽しげな仕事の幻を追い求める。

それでも、帰国が近い所為かもしれないが、気分は良い。世の中が総じて悲観的な状況のほうが、個人的には様々な機会に恵まれるような予感がするのである。帰国したら、あれもしたい、これもしたい、と些細な案件が次々と湧いてくる。これは今に始まったことではなく、昨年の11月下旬あたりから感じている。あくまで感覚的なものなので、なにがどう良いのか説明はできないのだが、自分のなかで何かがつながった感触がある。2001年の同時多発テロのあたりから狂い出した自分の生活の歯車のようなものが、ようやく復旧しつつあるような気がするのである。尤も、ただの気のせいということもあるので、過度な期待や無謀な行動は慎まなければならない。少なくとも、今すぐにどうこうという話は無いので、残り少ないロンドンでの生活は無事に過ごしたいものである。