熊本熊的日常

日常生活についての雑記

予言

2011年04月13日 | Weblog
震災のあと、いつか必ず出てくるとは思っていたが、「震災を予言していた」という記事を発見した。その予言とやらが今年の1月とか2月といった比較的近い時期であるにもかかわらず、震災直後には取り上げられることがなく、生活が少し落ち着いた今時分に登場するのは奇怪なことである。多くの人々が亡くなったり生活を失ったりしているなかで、そうした状況を高みで見物するかの如くの風体で、自分はその災害を予知していた、などとメディアに登場できる神経はただものではない。

世の中は人間の五感だけで感知できるものだけで成り立っているわけではないだろう。その五感にしても、人により個性というものがあるのは確かだ。平均的な人より特定の感覚が特別に鋭かったり鈍かったりする人は当たり前に存在しているし、五感を超えたところの感覚が鋭敏な人がいるのも不思議ではない。そうした能力のなかに未来を予知するという能力があるのも驚くべきことではない。

しかし、現実に災害が発生し、被災する人があるなかで、そうした人を救うこともせずに、事が発生してほとぼりが冷めた頃を見計らうかのように、予知能力を誇示するかの如くにメディアに登場できる人の倫理観や道徳観というものはどのようなものなのだろうか。役に立たないのなら、人を不愉快にするようなことは自分だけのことに留めておくのが社会で生きる上でのたしなみというものではないのか。

登場する本人も怪体だが、それを引っ張り出すメディアの感覚も尋常ではない。視聴率とかページビューさえ稼ぐことができればなりふりかまわぬということでマスメディアが存在することが果たして許されるものなのだろうか。勿論、法的には公序良俗に反しない限り何をしてもよいのだろうが、見せ掛けの良識を振りかざしながら視聴者や読者を愚弄するかのようなコンテンツを垂れ流すというのでは、世間の信用を得られまい。だからこそ、テレビがかつてほどに視聴率を獲得できないのではないか。メディアが多様化したという事情も無関係ではないだろうが、実体は節操がないから信用されないというだけのことだろう。

たびたびこのブログに書いているように私は2007年9月以来テレビを持っていないし、新聞も定期的に読んでいない。今回の震災で改めて確信したのだが、少なくとも現在のような姿のテレビも新聞も日常生活に不要である。大規模な原発が使用不能に陥ったことで電力不足が喧伝されているが、テレビ局の数を半分くらいに減らしたら効果的な節電になるだろう。在京のテレビ局はどこも都心の一等地に巨大な社屋を構えているようだが、店仕舞いをして不用になった局舎を被災した人たちの仮住まいに供するというようなことも「天下の公器」なら考えてもよいのではないか。

ところで、確か阪神淡路の時には地震雲とか言うものが話題になった。今回はまだ見聞きしないが、果たして現れたのであろうか。既に話題になっているのかもしれないが、私はテレビがないのでそういうことに疎い。


選挙が語ること

2011年04月11日 | Weblog
昨日は都知事選をはじめとする地方自治体の首長選挙や議員選挙が行われたところが多かった。知事は現職優位で、議員も民主党系の退潮が顕著となった。この状況下で民主党という看板を背負って選挙に出ようなどというのは狂気の沙汰だろう。よほど自意識過剰なのか、単に現状認識能力に重大な欠陥があるか、その両方なのか。さすがに都知事選には民主党から立候補しようという無謀な人はおられなかったが、当然だろう。震災がなければ、あるいは出る人がいたかもしれないが、震災、殊に原発事故の対応で無能を晒した政権政党というのは、やはり有権者の心証が悪すぎる。尤も、人の思考や行動は習慣に大きく左右されるそうなので、政治の世界にも「ご贔屓」のようなものがあるのだろう。但し、注意しないといけないのは、昨日投票が行われた41道府県議員選挙の投票率の低さである。首都圏では議員選挙が実施された3県すべてが過去最低となったほか、多くの県で過去最低となっているのは、震災後の「自粛ムード」で選挙戦が盛り上がらなかったという事情もあるかもしれないが、単純に政治というものの無力を露呈したなかでの選挙戦で、特定の政党に関わりを持たない所謂「浮動層」が投票を放棄したということだろう。このため、支持基盤がしっかりしている政党の候補者が相対的に票を集めたように見える。共産党の候補が軒並み落選したのは、やはり非常時にあって、万年野党の政治力が疑問視された結果だろう。

震災の復興や原発事故の解決は何年も続く長丁場だ。今はまだ被災者への関心も高く、電力供給不安への理解もあるだろう。「がんばれ東北!がんばれ日本!」と言っていられるのは、果たしていつまでだろうか。そう遠くない将来、被災者は別にして、その他大勢は復興や原発事故にまつわる有形無形の負担のほうに不平不満を覚えるようになるのではないか。阪神淡路の時とは状況がかなり違うはずだ。参考になるところもあるだろうが、被災者も為政者も未経験のことばかりに直面することになる。だからこそ、長期に亘って無理難題をひとつひとつ丹念に処理していくことができるよう、まずは平穏を回復し、そのなかで物事を冷静に観察し考察していくことが肝要になる。しかし、落ち着けば、中身がなくても見栄えのするパフォーマンスに走るのも人の習慣なのかもしれない。選挙に立候補した人には、それなりの覚悟と志があり、当選したのはそれが有権者に理解されたということなのかもしれないが、当選したことを素直に祝福できないのが今の時代でもある。

新学期

2011年04月10日 | Weblog
実家に行くと、新しい学生証やスクーリングの案内などが届いていた。なにしろ人生の黄昏時を迎えているので、自然体でいると自分が学生であるとの自覚が無い。それでも3年生への編入学が認められて、1年分の学費も納めたのだから、勉学に励まないといけない。自分で入力したはずの履修届には見覚えの無い科目が並び、しかもそうしたものに修了試験まで設けられているのを見ると眩暈を覚える。提出しなければならない課題も、各科目とも厄介なものばかりだ。今更大学の通信課程に入学するなどという馬鹿なことをよくも思いついたものだと、我ながら呆れ返ってしまう。住処に戻ってから、とりあえず自分が履修登録をしている科目を改めて確認し、春季スクーリングのいくつかをウエッブ上で予約する。勉強時間を確保することを真剣に考えないと卒業はおぼつかない。気の迷いとはいえ、自分で決めたことなので、なんとかしないといけない。

実家との行き帰りに利用した板橋駅のロータリーの桜が満開だった。地震の後、営業を停止していた駅前の安くておいしい中華料理屋が営業を再開していた。厨房もフロアも全員中国人の店が戻ってくるのは、なんとなく希望が感じられて嬉しいものである。

いまできること

2011年04月09日 | Weblog
お茶の稽古の後、家禄と三三の二人会を聴きに行く。会のはじめに義捐金の話があった。金額は払う人が決めることにして、今回の落語会のチラシを買うと、終演後に家禄と三三がそのチラシにサインをするというものだ。当初、終演後にふたりが募金箱を持って客を見送るというものだったという。しかし、それはいかがなものかということになったのだそうだ。気持ちの表現方法は募金だけではないはずだろうというのである。気持ちは勿論大事だが、何が復興のために本当に役に立つのかということを考えることも大事だろう、というようなことも語られていた。私もその通りだと思う。街角で募金箱を持って、募金を集めることが悪いことだとは思わない。しかし、子供ならともかく、大人ならば、募金箱を持って突っ立っている時間を、働くなりアルバイトをするなりして給金をもらい、その自分の金のなかから義捐金を赤十字なり自治体なりのしかるべき組織に直接送金するようにすれば、経済活動も活発になり、それが巡りめぐって復興にもより長期的かつ安定的に寄与することになるだろう。また、他人の金を集めることを考えるのではなく、自分の金を送ることで、ひとりひとりにとってより意義深いものになるのではないか。そういう意見も語られていて、確かにその通りだと深く同意できる。失業率を見ろ、仕事なんかないぞ、という意見もあるかもしれない。しかし、少なくとも私の身の回りで「アルバイト募集」の張り紙はいくらで目にすることができる。今度、空き時間を使ってアルバイトをすることができるものかどうか確かめてみようかとも思っている。

3月11日の震災からもうすぐ丸一ヶ月になる。東京も震度6の揺れで、その直後からは買い溜め騒動が起こった。原発事故がいつになったら終息するのか見当もつかない状況は相変わらずだが、被災した人もしなかった人も生きていくという現実を抱えているのである。自分が義捐金として大きな金額を提供したということを声高に吹聴する人もいるようだが、純粋に気持ちを表現したいのなら余計なことは言わないものだ。義捐はあくまでもそうしたいという気持ちがあってのことであり、他人に強制されるものではないし、広告宣伝の手段でもない。桜が咲き乱れる時期だが、花見を楽しむことができる状況にある人は、誰に遠慮することなく花見を楽しめばよいのではないだろうか。祭が好きな人は、それを楽しめばよいし、政が好きな人は、世のため人のために尽力すればよい。そうした通常の日常を通じて、被災地の復興も粛々と進捗するというのが健全な社会というものではないのか。勿論、非常時なのだからなんらかの特別措置も必要だ。それを立案し実行するために政治と行政があるのではないか。形ばかりの「視察」で仕事をしているふりをして、復興作業に忙殺されている自治体や関係者の人々に不愉快な思いをさせたり、そのために限られた警備要員を動員したり徒に経費を浪費するのは政治とは言えない。機能不全に陥った政治は制御不能に陥った原発以上の害悪だ。

さて、落語のほうはそれぞれが得意の噺を熱演するというオーソドックスなものだった。古典は道具立てや登場人物の言葉が現在では見聞きできなくなってしまっているものがあるので、そのままではわかりにくいことがあるのは確かだと思う。しかし、口演者の技量があれば、そうした些細な障害を超越して、噺のなかの登場人物たちの心情が素直に伝わってくるものだ。落語はいいものだとつくづく感心した。

本日の演目
「二人旅」 柳家まめ禄
「大工調べ」 柳家三三
(中入り)
「二階ぞめき」 柳家家禄

会場:北区 赤羽会館
開演:17時00分
閉演:19時15分

どこまでいけるかな

2011年04月07日 | Weblog
飽きもせず徒歩1時間圏の発見に励んでいる。今日は出勤のときに少し早めに住処を出て、職場に向かって1時間歩くことにした。それで職場に着けばよし、着かなければ最寄の駅から鉄道を利用するというつもりで出かけた。

前回は白山通りをお堀端まで進んだので、今日は途中の交差点で不忍通りへ左折して本郷通りに出て、そこを南下するというルートにした。以前にも書いたと思うが、白山通りと不忍通りと六義園に囲まれた地域は、その昔「駕籠町」と呼ばれていた。江戸時代に将軍専属の御駕籠係が居住していた場所である。御駕籠係は51名で、その家族を含めてもたいした数にはならないだろうが、50世帯が暮らすにはかなり余裕のある広さだ。尤も、近くの六義園は柳沢吉保が大名庭園として造営したもので、要するに家の庭のようなものであることを考えれば、江戸の頃の住まいの広さに対する考え方は現在とは全く違ったものだったのだろう。

不忍通りに面して駒込警察があり、その隣に東洋文庫がある。私は東洋文庫というのは、そういう名前の出版社だと思っていたので、本当に東洋文庫、つまり図書館のような施設なのだということを今日初めて知って驚いた。調べてみると、ここは2009年3月まで国立国会図書館の分館という役割も担っていたのだそうだ。「図書館のような施設」ではなく、図書館なのである。現在、建て替え工事中で今年の秋にリニューアルオープンとなる予定だ。

不忍通りから本郷通りに入ると沿道に寺が並んでいる。そのなかでひときわ大きいのが吉祥時だ。もともと太田道灌の頃に現在の和田倉門のあたりに造られた吉祥庵が起源だそうだが、家康の時代に水道橋際に移転、それが明暦の大火(1657年)で焼失して現在の場所に移転した。明暦の大火はご存知「八百屋お七」の火事として、吉祥時はその舞台として記憶されることもあるが、お七が実際に大火で避難したのは円乗寺で、1682年のことらしい。その円乗寺で出会った寺の小姓の山田佐兵衛に惚れてしまい、佐兵衛に会いたい一心で放火に及んだというのが文京区のホームページに記載されている内容だ。昔のことなので、その寺については他の説もあるようだし、話そのものも後年の芝居に影響されているところもあるだろう。芝居のほうは井原西鶴の「好色五人女」のなかに取り上げられたことを機にいろいろに演じられている。落語でも私が持っている「枝雀十八番」に収められている「くしゃみ講釈」のなかで使われている。ここでは舞台となっているのは吉祥寺であり、小姓の名は吉三(生田吉三)とされている。落語の舞台となっている場所を見物に京都や大阪まで出かけてしまう身としては、この吉祥寺にも立ち寄りたくなってしまったが、こんな調子で寄り道を繰り返すことになっては、いつまでたっても出勤できないという事態に陥ってしまうことを恐れ、今日のところは我慢して通り過ぎた。

さらに寺の並ぶ通りを進むと、門前に大きな布袋様がお立ちになっている寺が現れた。満開の桜の木に囲まれ、布袋様のお姿とも相俟って華やいだ雰囲気になっている。浄心寺という文字が目に入ったが、どういう謂れのある寺なのだろうかと思う。さらに進むと寺だけではなく、教会も現れる。日本キリスト教団西片町教会で、名前だけは何度か耳にしたことがあったが、教会然とした建物ではないので、一見したところそれとはわからない。以前に勤めていたところの近くに、霊南坂教会というのがあったが、それも街のなかに埋没しているかのような雰囲気だった。

宗教関連施設が途切れると、左手に東京大学が見えてくる。普段は縁のないところなので、気にも留めていなかったが、久しぶりに眺めてみると敷地内に新しい建物が増えているように見える。国立大学が昨今の民営化の流れのなかで国立大学法人となり、国からの予算配分にも軽重がつくようになったので、東大のようなところは重点校として厚めの予算を獲得したということなのかもしれない。駒場のほうは、民藝館があるので頻繁に足を運ぶが、やはり綺麗な建物が増えた印象がある。箱物の整備に相応しい中身の工夫も当然行われているだろうが、少子化のなかで東大といえども真剣に生き残りを模索しなければならない時代になっているのではないか。どの業界もしんどい時代になっている。

赤門を過ぎたあたりで、住処を出てちょうど1時間が経過した。たまたま目に入ったボン・アートというカフェに入り、あんみつをいただいて、本郷三丁目から地下鉄で東京に出て、無事出勤した。

出会い

2011年04月06日 | Weblog
1月の陶芸個展で小皿を買っていただいた方から、その皿に料理を盛った写真が届いた。ピーマンとシラスを胡麻油で炒めたものだそうだ。私も同じようなものを作ることがある。今のところ食用油はオリーブオイルしか使っていないので、私が作る場合は胡麻油ではない。写真の主曰く、「関根の胡麻油」というたいへん美味しいものだそうだ。どのようなものなのか、近いうちに調達してみようと思っている。ささやかなことではあるが、一枚の皿から自分が知らなかったことを知るというのは、世界がほんの少し大きくなったような気分になるものだ。地道にこうした新しい人やものとの出会いを重ねていけば、いつか自分の人生が唐突に大転換するというようなことになるのだろうか。

一手間の効用

2011年04月05日 | Weblog
コーヒーを抽出するときに使っているペーパーフィルターを切らしてしまったので、ネルで淹れた。紙とネルというフィルターの材質の違いで、これほど味が変わるものかと驚いてしまう。何度もコーヒーのことはこのブログの話題に取り上げているが、私はコーヒーが大好きで、抽出道具も普段使っているペーパードリッパーのほかに、ネルの袋、プレス、サイフォン、マキネッタなどを持っている。その時々によって自分自身の好みも微妙に変化するのだが、コーヒー豆のポテンシャルを最大に引き出すのはネルドリップだと思っている。しかし、後片付けや袋の衛生管理が面倒な気がして、これまでは主にペーパードリップで淹れていた。改めてネルを使ってみると、やっぱりペーパーとは道具としての格が違うということがわかる。昨日までと同じ豆とは思えないくらい深くまろやかな味になる。ペーパーでも十分美味しいと思っていたのだが、美味しさの深さというか厚みというか、上手く表現できないのがもどかしいくらいに、違ったものになるということだ。

面倒、と言ったところで、たいした手間ではない。それまでなら、フィルターごと捨ててしまっていたのを、中身だけ捨ててフィルターを洗えばよいだけのことだ。抽出そのものは基本的に同じなので、手間といっても片づけが少し増えるだけのことなのである。しかも、使った道具や食器を片付けるときに洗うものが限界的に増加するだけのことでしかない。なぜ、いままでそんな些細な手間を惜しんでいたのだろうと不思議に思われるほどだ。コーヒーを淹れることに限らず、自分の生活のなかに似たようなことがありはしないか、改めて点検しないといけない。そういう僅かな違いを積み重ねることこそ、生活のほんとうの豊かさだと思うからだ。

「再生の朝に ある裁判官の選択 (原題:透析 Judge)」

2011年04月04日 | Weblog
社会とか文明というものの成り立ちを語る作品だと思う。愚直なまでの秩序への盲従と狡猾なまでの欲望への追従の組み合わせこそが我々の生きる場の現実だろう。裁判というと、秩序遵守の典型のような場面を想像しがちだが、法を運用するのも、法によって律せられるのも人間である。そこに関わる人々には当然に個人の欲望があり、時にそれが秩序との間に葛藤を生むことにもなる。秩序が善で欲望が悪というようなことではなしに、そうしたものが渾然一体となっているのが現実の世界というものだ。そうした現実を淡々と描いているのが本作だ。

主人公の裁判官、ティエンは秩序の象徴だ。秩序には背景となる価値観がある。判事というのは与えられた事象に白黒つけるのが仕事であり、その判断はその国家の法に基づく。法すなわち国家としての価値観の表現を社会事象に対して与えていくのである。自動車2台盗んだことに対する刑罰が死刑という法があるなら、その軽重を判断するのではなく、自動車2台を盗んだという事実を確認し、その被害額が3万元という法に明記されている基準額を超えているか否かを確認し、法が定める刑罰を宣告するのが裁判官の務めだ。もし、判決の確定から刑の執行の間に法が改正された場合には、その改正に伴う法執行の適切な修正処置を必要に応じて実行するのも裁判官の役目である。ティエンが死刑執行直前に執行停止を決めたのは、彼の「人間性」の所為ではなく、裁判官としての職業倫理に従ったまでのことだろう。死刑執行命令書の日付は9月29日で、刑の執行は命令の下った日から6日以内ということになっている。映画の舞台である1997年の9月29日は月曜日だ。中国では10月1日が国慶節で祝日なので、その後に執行すべく事務手続きが行われている。ところが、法改正で新法が10月1日付で施行されて旧法が無効となり、改正後の法に従えば被告の量刑は死刑ではなくなる。ティエンがこだわったのは、自動車2台で死刑になるという量刑あるいは判決に対するものではなく、単に法改正に伴う裁判官として執るべき措置の正当さでしかなかったと思う。

ティエンは特に正義感が強いとか帰属組織への忠誠心が強いというようなことではなく、私人としてはどこにでもいそうな普通の人だ。子供を交通事故で亡くしたばかりで、妻はその衝撃から立ち直れないでいる。子供を亡くしたので犬を飼い始めたのか、亡くなる前から飼っていたのかわからないが、無登録で飼っている。それが警察の知るところとなり、犬を捕獲に来た巡査に抵抗して警察に留置されてしまうという、「裁判官」という印象にはそぐわないようなこともする。巡査に抵抗するとき、「私は裁判官だぞ」と凄んでみせるのだが、巡査に「だったら法を守れ」とたしなめられると返す言葉を失ってしまうのもご愛嬌だ。

人の行動の8割が習慣によるものだという話を聞いたことがある。本作のなかに描かれているティエンは、裁判官であるとか夫であるといったこと以前に、普通の人として習慣に身をゆだねているかのように、私には映る。国家や文明といったものの本質は、人の思考や行動の習慣に依存する部分にこそあるのではないかと思うのである。習慣に依存した結果として、どこまで秩序や公正が維持できるのかということが、その社会の質を定義しているのではないだろうか。

この作品のなかで興味を覚えたのは食の扱いである。繰り返し描かれているのはティエンと妻との食卓と囚人の食事風景だ。子供を事故で失った衝撃で、ティエンの妻は無気力になってしまっている。朝と夜はティエンが食事の支度をしている。ご飯とおかず2品という組み合わせは、中国の一般の人々の典型的なものなのだろうか。妻はそれを口にすることもあれば、手をつけないこともある。それでも、ティエンは毎日せっせと作る。1997年の中国にもインスタント食品や出来合いの惣菜はあっただろうに、ティエンは裁判官という仕事を持ちながらも、毎日調理をする。食事の時間だけが、夫婦が顔を合わせる時間でもある。大きな喪失を経て今にも崩壊しそうな家族という関係を、ティエンは食事を作ることによって維持し、そこから関係を再生しようとしているかのようだ。食卓の豊かさというのは、並んでいるおかずの豪華さや手の込み具合によって決まるのではない。食への感謝と、食を共にする相手がいるなら、その関係性に対する想いがどれほどあるのか、ということが肝心なのである。ティエンは職場からの帰りに市場に寄って食材を買い求め、妻のために食事の支度をする。そのことが、なによりも饒舌に彼の妻への想い、家族という関係を守ろうとする意志といったものを表現している。

やがて、時間の経過とともに妻の態度に微妙な変化が現れ始める。きっかけは、先ほど触れた犬の件だ。今にも崩れ落ちてしまいそうな自己を支えていた愛犬が警察に捕獲されそうになったところを夫が身を挺して阻止する姿に何かを感じたのだろう。あるいは、単に夫が警察に連行されてしまって食事の支度を自分でしなければならなくなったという単純な理由なのかもしれないが、久しぶりに妻は台所に立つ。そしてご飯を炊き、おかずを二品作って夫の帰りを待つのである。愛犬は捕獲され、ティエンも警察で絞られ、意気消沈して家に帰る。今度はティエンのほうが食が進まない。そのとき、妻はおかずを自分の箸で取り、ティエンの飯碗に乗せたのである。顔を見合すティエンと妻。なかなか良いシーンだ。やがて、夫婦で台所に立ち、一緒に食事の支度をするようになる。食卓での会話の無さは相変わらずだが、その空気はそれまでの張り詰めたものから温かいものへと変化しているかのようだ。

一方、囚人の食は食事というより給餌だ。食事の時間になると看守が食事を持って各部屋を回る。囚人は自分の食器を差し出してそこにスープをよそってもらう。それに饅頭が付いて一食分だ。一部屋には7・8人もの囚人がいるが、食事の時間を楽しむというような状況ではなく、ただ食欲を満たすためだけに口を動かしているかのようだ。囚人の間に会話などあるはずはない。誰もが一刻も早くそこから抜け出すことしか頭にないのであろう。囚人どうしの人間関係などその場限りのものでしかない。

ティエン夫婦の食卓と囚人の食事とを繰り返し描くことで、食事というものが、人間関係をどれほど饒舌に語るものなのかということを見事に表現していると思う。

関係といえば、ティエンが担当している自動車窃盗事件の犯人の腎臓を欲している企業経営者が登場する。彼は事業に成功し、若く美しい婚約者がいる。彼と婚約者の関係を描くのはベッドのシーンだけで、食事を共にする姿は描かれていない。それは偶然なのかもしれないし意図したものなのかもしれない。しかし、ティエン夫妻とこの実業家とその婚約者という二組の男女の関係を比べたときに、夫婦としての積み重ねた時間があることを勘案しても、崩壊の危機に瀕しているティエン夫妻のほうが好ましい関係に見えてしまう。

臓器売買の話も作品のなかに組み込まれているのだが、正直なところ私には何が問題なのかよくわからない。臓器「提供」が美しい話で、臓器「売買」が社会問題、というようなざっくりとした括りが世の中にあるように感じられるのだが、死ぬ当事者にとってはどちらも同じことだろう。「売買」と言ったって、その金を自分がもらうわけではないのだから、それを果たして「売買」と呼ぶことができるのかどうかも疑問だ。作品中で臓器提供を受ける側の弁護士が臓器提供をする側の死刑囚に契約書の文言を説明する場面で、「『臓器提供』と書いてあるが、金はちゃんとあなたの家族に行くから安心してください」と言っている。これは「提供」も「売買」も行為の実体としては同じだと語っているように見える。

日本でも臓器「提供」はしばしば話題になっている。私の健康保険証は昨年更新されたのだが、新しい保険証の裏面には臓器提供の意思表示ができるようになっている。以下のような文面が印刷されていて、そこに自筆で署名をするようになっているのである。
1. 私は、脳死後及び心臓が停止した死後のいずれでも、移植の為に臓器を提供します。
2. 私は、心臓が停止した死後に限り、移植の為に臓器を提供します。
3. 私は、臓器を提供しません。
この番号に丸をつけて、その下にある署名欄に日付と署名をするようになっている。今のところ、私はどこにも丸をつけていないし、署名をしていない。死亡したら人間ではないだろう。人間でないものに意思があるはずはない。人間でないのだから、生前の意思といえども、その意思は無効だろう。遺言というものが一定の条件を整えていれば有効であることは承知している。しかし、「人間の権利」というときの「人間」とは何なのか、死者とその残された家族との関係、より具体的には死者が生前に持っていた権利と遺族との関係に関する法規と、「人間」に関する法規との間に矛盾があるのかないのか、というようなことがよくわからない。例えば、仮に私が臓器提供を承諾しているとする。私の死後、私の臓器を提供することに私の遺族が反対したとする。そのとき私の臓器はどうなるのか。私が生きていれば、私の臓器は私のものだ。家族が反対しようが私の意思で提供できる。私が死亡した場合の私の臓器の所有者は誰なのか、そもそも存在するのか。私の遺族は何の権利があって私の臓器提供に反対できるのか。死亡したら、私の死体は遺族の所有物ということになるのか。このあたりのことはおいおい調べて考えてみたいと思っている。

他にも、この作品を観て考えたことはいくらでもあるのだが、とりあえずこのくらいにして筆を置く。考えるネタをたくさん提供してくれる作品というのは、観た後の満足感が大きい。こういう作品を作る人たちがいる中国という国は、いろいろな意味で大きな国だと思う。

小石川植物園にて

2011年04月03日 | Weblog
散歩がてら小石川植物園に出かけてきた。昨日の穏やかな陽気とは打って変わって、曇天の寒空だったが、ソメイヨシノも木によっては五分咲きくらいだった。寒いのなんのと言っていても、季節は確実に巡っているらしい。

寒くても花が咲けば花見に集まる人はいる。植物園内でも花見のグループがいくつかあった。桜の時期は子供たちの春休みでもあるのだが、小学校低学年対象の自然観察会と思しき集団も園内を賑やかに移動している。こうした長閑な様子も春ならではのことだろう。尤も、長閑に感じられるのは、今日が寒くて人が少ない所為なのかもしれない。もっと陽気が良くて混雑していたら、違った雰囲気なのだろう。

この植物園には関東大震災のときに3万人の人々が避難してきていたそうだ。当時の敷地面積と現在のそれとが同じなのかどうなのかわからないが、同じだとしたらたいへんな混雑だったはずだ。もし、先日の地震の震源がもっと南で、激震の中心が東京だったとしたら、ここはやはり避難所になるのだろうか。子供が小学校に上がる前、ほとんど毎週末のように都内の大きな公園に出かけていた。受験対策の一環で、子供に季節感を体感させるためだ。この小石川植物園にも勿論来たことがあるが、赤塚公園、井の頭公園、浮間公園、葛西臨海公園、砧公園、小金井公園、石神井公園、城北中央公園、神代植物公園、善福寺公園、舎人公園、光が丘公園、代々木公園、新宿御苑、昭和の森、挙げだしたら限がないほどだ。どこもそこそこに大きいのだが、都区内にあるものは一部を除いて中途半端な規模という印象が否めない。土地利用として、経済性という観点からは、都心に広大な公園を設けるのは非合理であるとは思う。しかし、ロンドンで暮らしていたときに、ハイド・パーク、リージェント・パーク、キュー・ガーデンといったところを何度か訪れてみて、都心だから大型公園は無理という理屈は無理があるように思えてきた。経済性を追求するのは市場社会の参加者たる民間の個人や法人であり、公的機関というのは経済性では律することができないけれど公共の福祉には大いに寄与するというようなことを公権力によって実現するものだろう。皇居の一般開放区域を現在の倍くらいに拡大するとか、先に列挙したような公園をそれぞれ一回り大きくするとか、市街域が大きい東京だからこそ巨大で誰もが利用できる緑地を設けることで、生活環境改善と安全対策に万全を期するというような施策はできないものなのだろうか。

徒歩圏

2011年04月02日 | Weblog
木工に使う材料を調達するのに池袋の東急ハンズへ出かけた。ついでに、注文しておいた本を受け取りに西武のリブロにも足を伸ばした。これまでなら、池袋に行くには巣鴨から山手線を利用したのだが、震災をきっかけに、なるべく機械類に頼らない生活を心がけようとの思いが強くなっていることもあり、徒歩で出かけてきた。

以前にも散歩がてら池袋まで歩いたことがあるので、だいたいの距離感は持っているつもりだったが、改めて歩いてみると、夏場以外ならば十分に徒歩圏内の距離であることが確認できた。時間を計ってみたところ、巣鴨の住処を出て池袋駅東口までちょうど30分だ。小石川の橙灯もほぼ同じような距離で、1月の陶芸個展以来、最寄り駅のひとつとして利用している板橋駅までが20分。先日、勤め先まで歩いたときは1時間15分。夏以外の時期の徒歩圏を1時間程度の距離とすると、かなり広い地域になることがわかる。何年か前には青梅街道を新宿から青梅まで歩いたことがあるが、このときは7時間35分だった。さすがにこれほどの距離を日常生活の徒歩圏にはできないが、歩くという自分の身体感覚を認識するには、たまに遠くまで足を伸ばすことも必要だろう。

歩くことで身につくものは、身体感覚以外に土地勘もある。自分が生活している場所がどのようなところなのかということを知ることは、そこで暮らす自分という人間の何事かを知ることでもある。如何なる理由があって住処を選んだのか、その選択基準の背後にあるのは何か、その基準を自分が何故設けたのか、といったことが暮らしている場所を知ることで見えてくるような気がするのである。それは、服装などの身につけるものの趣味や、生活のなかで使うものを選ぶ際の判断基準にも通じるものだろう。住居、ましてや賃貸なら、通勤の利便性と家賃との兼ね合いなどで選んでいるかのように見えて、それ以外の自分の価値観や世界観が無意識のうちに反映されていたりするものなのではないだろうか。持ち家となると、また違った基準になるのかもしれないが、個人的には自分が住み続けるつもりで購入した不動産は無いので、よくわからない。ただ、「住み続ける」ことを考えること自体、その人の価値観を饒舌に語っているのではないだろうか。

以前にも何度か話題にしているが、私が今の住処を選んだのは、場所としては勤務先と老親が暮らす実家への便が良いこと、洪積台地であること、の2点が主要な条件で、後は物件との縁である。洪積台地に関しては中沢新一の「アースダイバー」を参考にした。

それにしても、東京は坂が多い。巣鴨から池袋までは谷越えだった。

chiaroscuro

2011年04月01日 | Weblog
久しぶりに友人と昼食を共にして午後の時間が空いたので、国立西洋美術館で開催中のレンブラント展を観てきた。

今回の展覧会では版画を中心にした展示になっている。説明するまでもなく、版画といえば、同じ図柄のものが何枚も作られるのだが、版が同じでもインクの乗りは刷り毎に違いがあり、紙の種類によっても表現は違ったものになる。レンブラントの場合は銅版画だが、銅といえども刷りを重ねれば少しずつ磨耗する。版画といっても、厳密には全く同じものは2つとないのである。また、一旦完成した版に修正を加えることもある。勿論、展覧会で刷りの比較をする場合は、インクの乗りだとか磨耗といった自然な変化のものを並べるのではなく、紙が違うとか、版に修正を入れたというようなものを展示する。

昨年11月に蛭谷和紙の職人の話を聴く会に参加する際、予習としてざっくりネットなどで調べたことのなかに、レンブラントが版画に和紙を好んで用いていたということがあった。説明では紙の色とかインクの滲み具合というようなものがレンブラントの表現意図にしっくりときたということらしいのだが、実物を見てみないことには、そうした説明もいまひとつ理解できないでいた。

それが、今回の展示では紙の違いが何をもたらすのか、雄弁に表現されていた。モノクロの版画はモノクロではない。黒は黒ではなく、白は白でないのである。単色のインクであっても、濃淡によって表現される色は違ったものになり、それによって奥行きを表現することもできれば、画面の人物に表情を与えることもできる。さらに印刷する紙によっても色の深さは違ったものになる。それは滲み具合の違いにも拠るのだろうし、紙の色や質感にも拠るのだろう。単純に黒のインクと白の紙との組み合わせと考えれば、そこに表現に際しての大きな制約と感じられるだろうが、黒と言っても様々に濃淡や質感を変化させることができ、紙の白も一様ではなく、インクの吸収も紙質によって様々なので、制約どころか無限の広がりがある。闇には奥行きがあり、空白には空気が満ちている。 “chiaroscuro”はイタリア語の“chiaro”と“scuro”に由来するのだそうだが、やはり単なる陰影ということではなく、もっと深い意味があるようだ。

レンブラントが生きた17世紀における絵画や版画は、現代におけるそれらとは違った存在意義を帯びていたはずだ。写真というものがなく印刷というものがそれほど普及していなかった時代には、今ほどに科学技術と美術とが分離していなかったはずだ。絵画や版画には、今とは比較にならないほど、写実性に対する要請が強かっただろう。レンブラントが和紙を愛用したのは、その中間色やインクの滲みに平面における奥行きの表現の可能性を見出したということではないだろうか。そこに平面を超えた何かを表現する可能性を見たということだ。

一方、レンブラントが和紙に版画を刷っていた頃の日本では、狩野、雲谷、長谷川、土佐といった諸派が正統派ともいえる日本画を描いている時代で、俵屋宗達は既に没していた可能性が高いが、後に「琳派」と称される新たなスタイルの胎動が始まった時期でもある。勿論、当時の日本画はエスタブリッシュメントであろうと琳派であろうと基本的には和紙に描かれており、和紙のバリエーションは様々にあっただろうが、和紙以外の選択肢といえば絹くらいのものだろう。

今のように通信や交通の手段が発達していなかった時期とはいいながら、和紙という同じ素材に対する向かい合い方がユーラシア大陸を隔ててかなり違ったものであったというのは面白い。同じものが置かれる文脈によって違ったものになるというのは、現代の生活のなかにもありうることだ。違ったものになることによって、悲喜劇が生まれることもあるのだが、思いも寄らぬ価値を生み出すことだってある。物事にはそれが生まれた必然性というものがあり、その必然のなかに置かれることで所期の目的を達するということは当然のことながら、その必然を取っ払って虚心に向かい合うことで何事かを創造するという可能性もある。「虚心」というのが容易に到達する心境ではないのだが、自分の習慣を見直してみるという作業は常に心がけてみる価値はあるだろう。それで自分のなかの白黒が逆転したら、人生は思わぬ方向へ転がり出すのかもしれない。