滋賀県近江八幡市の八幡城跡を流れる八幡堀を歩くと、あちこちでこの絵のような石を敷き詰めた溝を目にします。
溝は堀より高いところにある城下町の通りから堀へと伸びて、雨水が流れ込む仕組み。「背割り排水溝(せわりはいすいこう)」と呼ばれます。
断続的に雨が降ったこの日も雨水が流れ込んでいました。
調べてみると、何とこれはわが国の下水道のルーツだったのです。
天正期の1585年、豊臣秀吉の甥にあたる豊臣秀次は八幡城を築いた際、防衛目的と琵琶湖を活用した水運振興のため八幡堀を造りましたが、秀次は八幡堀建設にもう一つの目的を加えていました。
当時の人々の毎日の暮らしから出る糞尿や生活雑排水は、一部は貯えて田畑の肥料にしていたでしょうが、多くは穴を掘って捨てるか、いわゆる垂れ流しに近い状態だったと思われます。
秀次は、城下を臭気と非衛生から守ることに目を付けたのでしょう。いわば下水処理施設を建設したのです。
背割排水溝という名称は、外見が切り出した木材の乾燥によるひび割れ防止のため表面に切り込みを入れる背割に似ていることから呼ばれました。
糞尿も流し込む八幡堀はすごい臭気や汚れだっただろうと思いきや、そうではなかったようです。近年の研究によると、堀を運航する船から通行料を徴収して浚渫費をひねり出し、町民も積極的に清掃や堤防の下刈りなどをして、いまのような美観のある堀だったそうです。
もちろん、現在は糞尿や生活雑排水は別処理され、流れ込んでいるのは雨水だけです。
古代ローマが地下に掘り巡らした下水道はよく知られていますが、日本ではこの背割排水溝が環境衛生の保護や都市造りの貴重なレガシーだといえますね。
作品は10号で描きました。
排水溝からの流れ口(上)と八幡堀