リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

謙遜も過ぎれば自慢

2014年04月11日 | 日々の風の吹くまま
小町横丁ではいろんな人が来ては「悔い改めよ」と辻説法をしていて、聞いているとけっこう
人間や社会文化の勉強になる。たとえば、自分の身内を褒めることは自画自賛の一種だと
早く気づきなさいと説いている人がいる。自分の身内を褒めるのは(良く言うのは)自分を褒
めることと同じだからダメって、じゃ、貶せ(悪く言え)ってことかな。まあ、「聞いてて本当に
ツマラナイ!」とのことだから、単に人生を楽しめないだけかもしれないけど。

他人を褒めることを良しとしない人は世界にごまんといるけど、身内を褒めるのは自分自慢
であるという発想はすごい。でも、身内を褒めることが自画自賛になるのなら、身内を貶す
のは自己否定になるんじゃないのかな。つまり、自己否定を要求しているようなもんだけど、
そういう人たちはあんがいそうやって(たぶんに仮想的であっても)自己を肯定しようとして
いるのかもしれない。でも、モラハラっぽい思考だなあ。いじめにも通じるし、何よりも他人
の人格の否定だと思うけど、貶される身内はそれをどう思うのかな。子供だったら親に認め
られていないと感じるかもしれない。親に認めてもらえなかった子は人を褒めない大人にな
るかもしれないな。

そういう人が他人のポジティブな話が不快で、暗に「謙遜」を要求したり、「自慢された」と被
害者?になって不快感の責任を転嫁するんだろうけど、自分の気持を表すはずの「残念」
を(自分のものさしに合わない)他人を見下す言葉に転化したり、何だか受動攻撃的な自己
肯定だという感じがするな。でも、自分を肯定しようにも、その「自分」がなければそれも叶
わない話だと思う。だったら他人の「自分」を横取りするしかなさそうだけど、他人も人間で
あれば往々にして「自画像」の自分ではなくて「残念な」自分だったりするから、よけいに嫌
い!許せない!

ワタシは身内でも赤の他人でもいいねと思うことは素直に褒めてしまうし、自分のうれしいこ
とも大っぴらに喜んで、ブログにも書いてしまう能天気な人間だから、日本文化のものさしで
は空気を読めない自画自賛の「残念な人」になるんだろうな。ま、自分のことは自分でよくわ
かっているし、「それでいいよ」と許容してくれる環境にいるから気にならないけど、そう言う
のも自慢になるのかな。でも、謙遜も過ぎると自慢に聞こえるんじゃないかと思うけど。