レンタルビデオでお馴染みのTSUTAYA。お世話になっています。TSUTAYAの創業者は、“現代の『蔦屋』になる”ということから社名をTSUTAYAにしたそうな。ところで、その蔦屋とは?当然、人の名前ですよね。
蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)は、江戸時代に活躍した版元。つまり出版社の社長、発行者ですね。江戸時代と言っても詳しくは、寛延3年(1750年)~寛政9年(1797年)。えっ、たった48歳の人生だったの?
どんな人かというと、父親が吉原遊郭で働いていたそうで、重三郎も吉原生まれ。後に吉原の茶屋、喜多川家の養子となり、屋号が“蔦谷”だったのです。安永2年(1773年)、吉原大門の前に書店を開き、出版、販売に携わります。
吉原の案内書『吉原細見』(ガイドブックですね)、人気作家の黄表紙(ってなに?)、洒落本や狂歌本を出版。ヒット作が続き、天明3年(1783年)日本橋に進出。一流版元に並びます。重三郎が世に出した作家たち…。
浮世絵の喜多川歌麿、東洲斎写楽、戯作の山東京伝、狂歌の大田南畝(なんぽ)といった江戸文化を彩る花形スター。全員は知らないけど、歌麿、写楽は超有名。しかし風紀取締りが厳しくなり、重三郎は摘発されます。うむ。
寛政9年(1797年)、48歳で亡くなります。その蔦谷重三郎を紹介した展覧会が開催されます。六本木・東京ミッドタウン ガレリア3階のサントリー美術館での「歌麿・写楽の仕掛け人 その名は蔦谷重三郎」です。
曲亭馬琴(『南総里見八犬伝』の作者)、十返舎一九(『東海道中膝栗毛』の作者)などの世話人でもあったという重三郎。彼のおかげで、私たちはたくさんの作品を見ることができるのですね。では展示されるその作品は?
ポスターにある、写楽の『二世瀬川富三郎の大岸蔵人妻やどり木』、『二世嵐龍蔵の金貸石部金吉』、『四世松本幸四郎の山谷の肴屋五郎兵衛』(いずれも寛政6年/1794年)、北斎の『画本東都遊』(享和2年/1802)。
歌麿の『難波屋おきた』(寛政5年/1793年頃)、『女達磨図』(寛政2~5年/1790~93年頃)、『婦女人相十品 文読む女』(寛政4~5年/1792~93年頃)など。これはチャンスですね。
蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)は、江戸時代に活躍した版元。つまり出版社の社長、発行者ですね。江戸時代と言っても詳しくは、寛延3年(1750年)~寛政9年(1797年)。えっ、たった48歳の人生だったの?
どんな人かというと、父親が吉原遊郭で働いていたそうで、重三郎も吉原生まれ。後に吉原の茶屋、喜多川家の養子となり、屋号が“蔦谷”だったのです。安永2年(1773年)、吉原大門の前に書店を開き、出版、販売に携わります。
吉原の案内書『吉原細見』(ガイドブックですね)、人気作家の黄表紙(ってなに?)、洒落本や狂歌本を出版。ヒット作が続き、天明3年(1783年)日本橋に進出。一流版元に並びます。重三郎が世に出した作家たち…。
浮世絵の喜多川歌麿、東洲斎写楽、戯作の山東京伝、狂歌の大田南畝(なんぽ)といった江戸文化を彩る花形スター。全員は知らないけど、歌麿、写楽は超有名。しかし風紀取締りが厳しくなり、重三郎は摘発されます。うむ。
寛政9年(1797年)、48歳で亡くなります。その蔦谷重三郎を紹介した展覧会が開催されます。六本木・東京ミッドタウン ガレリア3階のサントリー美術館での「歌麿・写楽の仕掛け人 その名は蔦谷重三郎」です。
曲亭馬琴(『南総里見八犬伝』の作者)、十返舎一九(『東海道中膝栗毛』の作者)などの世話人でもあったという重三郎。彼のおかげで、私たちはたくさんの作品を見ることができるのですね。では展示されるその作品は?
ポスターにある、写楽の『二世瀬川富三郎の大岸蔵人妻やどり木』、『二世嵐龍蔵の金貸石部金吉』、『四世松本幸四郎の山谷の肴屋五郎兵衛』(いずれも寛政6年/1794年)、北斎の『画本東都遊』(享和2年/1802)。
歌麿の『難波屋おきた』(寛政5年/1793年頃)、『女達磨図』(寛政2~5年/1790~93年頃)、『婦女人相十品 文読む女』(寛政4~5年/1792~93年頃)など。これはチャンスですね。