家舟の流される速度は、ちょうど全速力で漕いだ自転車ぐらいの速さだろうか。
家全体がひとつの箱舟のように、ゆらゆらと揺れながら濁流の海水に乗ってどんどんと上流へと流されていった。
里奈の部屋は、さながら嵐の海を渡る船室のように大きく前後左右に揺らめいていたが、震度6強が三分も続いたファースト・インパクトで、もはや何ひとつ落ちる物はなかった。
一階の天井に空気溜まりがあるのか、家はけっこう安定感を保ちながら箱舟の用を為していた。
「里奈、だいじょうぶかいッ?」
母親は途切れることなくずっと娘の安否を問いつづけた。
「うん…。まだ、部屋まで水入ってこないよぉ…。
あぁッ…」
「どうしたのッ?」
動悸が高鳴り続けていた母親だったが、さらに一瞬ドキリとした。
「学校が見えた…」
それは里奈の卒業した小学校の体育館の屋根であった。
(そんな所まで、もう…)
母親は、娘が制御不能の箱舟によって何処まで運ばれるのか、今にも狂いそうになる思いで胸が塞がった。
高台から見下ろす土色に濁った海流の勢いは、まったくもって治まらなかった。
もはや押し流されるべく沿岸の構造物は尽きたとみえ、広大な海そのものが押し寄せてきて、凄まじい勢いで街々を呑み込んでいった。
娘の姿は見えずとも、その息遣いと哀れな声は、耳もとのケータイから轟音に紛れてまだ母親に届いていた。
(里奈ぁ…。
どうぞお助けください)
と、母親はふだん祈った事のない神仏にすがった。
(お父さん。助けて…)
と、去年亡くなった里奈の祖父にも祈った。
家舟は数キロも上流に流された。
そして、行き着くところまで行くと、次第に流れは淀み、半径数十メートルの巨大な渦をあちこちに生じさせ、ゆったりと流れを逆転させた。
いよいよ川下りのように、下流に向かって家舟は進路を反転した。
流された多くの家々と共に…。
「お母さん。今度はまたそっちに流れ出したよう…」
(どうなっちゃうの、これから…)
とまでは言葉にならなかった。
家舟の梁がギシギシと大きな呻き声をあげた。
津波の渦によって捻られ、構造にストレスがかかったのだろう。
それはまるで、家自体も
(もうだめ…)
と悲鳴を上げているかのようであった。
初めはゆったりした反転速度だったが、それは徐々に速度を上げ、次第に加速度がついて、押し流された速さを上回るほどの激流に化しつつあった。
里奈は、海岸の砂浜で、足元を返す波に足を取られて倒れた幼い日のことを想い出した。
浜辺のたった数十センチの波でも、幼い子ぐらいは転倒させる運動量があることを経験者なら誰でも知っているだろう。
この津波の高さはどうだろう。
小学校の体育館が水没しかかっている。裕に15mはあるのだろう。
コンクリートの防潮堤が紙細工のごとく押し流されたのだから、その破壊力の凄まじさは計算も及ばない。
それにもまして浮力の凄さである。家一軒を基礎から浮かせてしまうのだから…。
それでも、まだ、バラバラに解体し散乱してしまった家はこの時間帯にはなかった。
しかし、どの家々もそうとうなストレスで疲弊していた。
何より海水に浸った建材は、刻一刻とその強度を脆弱化させているはずであった。
それでも、里奈の家舟は新築だったこともあり、まだ十分に舟としての機能を果たしていた。
「お母さん。こわいよぉーッ… これから、どこに行くの、これ…」
その問いにだけは、母親もさすがに応えかねて…
「だいじょーぶ。
ぜったい、助けが来るから…」
と勇気づけるよりなかった。
津波の返りは、さらに加速し、やがて渓谷の激流なみのトップスピードになって飛沫(しぶき)さえ立てはじめた。
(こわいッ…)
里奈は、そのスピード感と、家舟全体の揺れ、そして、辺りに響き渡る轟音とに圧倒されて、胸内苦悶と過呼吸の症状に陥った。
「苦しい…。お母さん。苦しいよぉ…」
娘は泣いた。怖がっており、苦しがっている。
手が届くものなら、この腕に抱きしめてやりたかった。
母親も涙した。
「里奈ぁ。がんばるのよーッ!
もうすぐ助けが行くからねッ!」
それは母親の願いではあったが、それを保障するものは、今、何ひとつなかった。
今この荒れ狂う自然の猛威のなかで、誰がどう救助できるというのだろう。
現実には、母親の願いは祈りに過ぎなかった。それでも、母親は信じた。我が子が奇跡的に生還するであろうことを…。
高台では、見知らぬ人どうしがひと処に寄り合って、眼下の大惨事に、悲鳴とも絶叫ともつかない嘆きの声を誰もが上げていた。
「何なんだこれ…」を繰り返してばかりいる青年。
「何が防潮堤だぁーッ!」とやり場のない怒りを吐いている初老の男。
「カナエーッ! かなえーっ!」
と濁流に向かって叫び続ける父親。
「なんまいだぶ、なんまいだぶつ…」とお経を唱える老婆。
「里奈ぁーッ!」とケータイに向かって呼びかけ続ける母親。
それはまさに、阿鼻叫喚の地獄絵図のようであった。
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