『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

雪明り

2021-01-08 08:03:00 | 季節
またまた寒波が
やってきて、
今朝は―6℃で
日中も0℃の
「真冬日」だという。

真冬なんだから、
マチガイはないのだが…。

神経痛持ちのジッチには、
辛い寒の時季である。

それでも、
「冬」にも「雪」にも
罪はないので(笑)、
冬には冬の楽しみ、
趣きを見出して、
それを楽しんで生きるべく
「隠居」「茶人」
としての通人・達人・粋人を
目指したいと心掛けてはいる。

雪国生まれのくせに、
長じては、雪降り日の
通学や出勤がカナワンなぁ…
と忌避する気持ちもあっだが、
ブレイクした『冬のソナタ』に
ハマッて、冬の美しさを
再認識して、爾来、
「冬には冬のよさがある」
と思い替えをするようになった。

これまで、
仙台、大阪、京都と棲んでみて、
福島ほど、四季の違いが
明確な地もないなぁ…
という思いをしている。

冬タイヤの履き替えも
雪国ならではだし、
真夏の暑さも全国レベルである。

梅雨・秋雨の雨季もあるし、
台風も時たまくるし…(笑)。

おまけに、自然環境では、
吾妻山は活火山で、
毎日、噴煙が見えるし、
そのおかげで温泉は数知れず、
スキー場もたくさんあり、
裏磐梯国立公園や
相馬の海浜までも
小一時間でいける。

風光明媚な一等地と
行ってもいい。

原発事故以前は、
都会からの移住先としては
最も注目度が高かったのも
首肯できよう。

しかし、放射能汚染で
すっかりミソが付き、
海外でも、被爆地の
「ヒロシマ」と並び
「フクシマ」は
歴史的に「不名誉」な
ノトーリアス(有名)地に
なってしまった。




ゆんべは
久しぶりに
真夜中まで、
雪明りの外景色が望めた。

そして、
夜明けとともに
寒中のゴミ出しに
雪を踏みしめながら
震えながら
ブーツで慎重に歩いた。




極寒の戸外から戻ると、
玄関の蝋梅が
温かげな黄色い花で
迎えてくれた。

きのうの
感染者数の7.000越えも
魂消たが、
心が委縮して
目に見えない重圧感に
圧し潰されないよう、
なんとか「自助」活動をせねば、
と心を振るい立たせている。

こういう時は、
早く、学校勤務が
始まってほしいものだ。

生命力輝く
子どもたちの姿は
目の薬にもなり、
職場環境に身を置くと
プロ意識スイッチがオンになり
シャンとするものである。




2台のピアノ前の壁には
ショパン/モーツァルト/
ベートーヴェンの肖像画が
かざってあり、

まるで、
学校の音楽室然としている。

久しぶりに、
『トルコ行進曲』を
楽譜庫から出して
さらってみた。

そしたら、
以前はもたついていた
中間部の息の長い旋律部分が
スラリと弾けて、
思わずモッツンの肖像を見たら
「そうそう。それでよし…」
と楽聖から褒められたような
気分がした。




ゆんべは夕食後に、
ショパンの『幻想即興曲』を
エチュード代わりに
指慣らししていたら、
カミさんが珍しく
「指速くなったねぇ…」
と感心していた。

思えば、
京都のマンション時代に
冬のボーナスでピアノを買って、
その時から弾き始めた曲なので、
途中の中断はあるが、
かれこれ三十年もさらっている。

ショパン像を前に
中間部のカンタービレを
奏でていると、
まさしく
『ピアノの詩人』と謳われるのも
むべなるかな、だなぁ…と、
感慨無量にもなった。

この中間部を
"ベタ"で俗っぽいと
評した音楽評論家がいたが、
うっとりするような
「甘い旋律」の何処がいけないんだ、
とケチをつけられたようで
不愉快になったことがある。

この手の偏向した評論家は、
チャイコフスキーなどの
甘美なメロディーをも
腐す族(やから)で、
「甘々のジェリービーンズのよう…」
とワケ解からん比喩で
独りよがりの文章を見て
辟易したこともある。

「甘美な曲」に酔うのは、
あたかも、オコチャマ同様の
精神性とでも言いたげであったので、
ムッとした。

この手の
高尚ぶった評論家の
駄言に左右されてる自分も
情けないが、
いつか弾いてみたい
と思ってた
バダジェフスカの
『乙女の祈り』を
未だにやれずにいる(笑)。

このまま弾かずに死ぬのは、
いかにも人生に
悔いを残しそうなので、
オシリ痛ジジイの
『落ち目の祈り』として、
やってみたろかしらん(笑)。

楽譜庫にピースはある(笑)。

消音ペダルで
やろうかしらん(笑)。

なんか、
やっぱ、ちっとハズイなぁ…。

でも、馬鹿評論家の
「甘々音楽」=「駄菓子」
と思いたくないしなぁ…。

マリーの『金婚式』なんて
いい曲だものね。





国内パンデミックの現況下で、
心理的にやはり
不要不急の外出は
憚られるような感じがする。

でも、食材の買い出しだけは
行かないわけにもいかない。

ヨシケイみたいな
出来合い物の配達は
一度もしたことないし、
今後もそのつもりもない。

やっぱり、
家庭人・料理人として、
市場から素材を調達し、
自らの手で、
煮炊き、焼き、切り、盛る、
という作業をしないと
気が済まない。

第一、そのプロセス自体が
楽しいのだから、
それを放棄する手はない。

コロナ禍になって、
12年間、毎日連載してた
グルメ・サイトを閉鎖し、
ぱったりと外食の習慣が
なくなった。

超一流店を除いて、
自分で創った方が、
美味しいし、安いし、楽しい…
ので、外食がバカらしくなった。

新規の店にも、
さほどに食指が
動かされなくなった。

どーせ、…でしょ、
と、行かずとも判る
ようにもなったからである。

年100回以上の外食を
20年以上続けたので、
地方の店にあっては、
似たり寄ったりで
ドングリの背ぇ比べで、
志しとセンスと技量の
低い店ばっかりで、
よくもまあ、これまで飽きずに
あちこち行ったもんだと
我ながら呆れも感心もしている。













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