3・11で、七十四人の児童と十人の教師が津波の犠牲となった小学校がある。
未曾有の大震災とはいえ、一校の子どもたちや教師たちがそれほどの犠牲になったのは、後世まで記憶に留めておかねばならない教育界の大惨事である。
この事故には、津波が来るまでの約五十分間のあいだに、どうして適切な避難指示がなされなかったのか、という遺族からの疑義が教育委員会に質され、一部の遺族からは損害賠償請求の訴訟も起きている。
この大事故の詳細は第三者委員会によって『事故検証報告書』として平成二十六年に公表されている。
我われは、多くの事をその報告書から学び取り、今後の教訓を得ることができる。
まさに、当日の現場は、パニック状況であったことだろう。
校長不在で教頭が避難の指揮をしていたが、結果としてその「決断」によって大事故が生じてしまった。その教頭ご自身も亡くなられたので、気の毒なことであるが、事故後、検証された様々な情報から総括すると、結果論的には「裏山に即時非難」が事故から免れた最善策だったようである。
緊急時に、多くの人命をリードする立場にある者が、逡巡し、将棋で言う「最善手」にたどり着けず、「悪手」を打ってしまうと、自らの命だけでなく尊い他者の命まで失ってしまう悲劇が生じるのである。
本作は、この悲劇的事故をモチーフとして、フィクションとして創作したものである。
亡き児童と教職員の御霊(みたま)様が安らかならんことを祈念するものである。
1
午後二時四十六分。
三陸小学校では、帰りのホームルームの時間を終え、子どもたちは銘々、下校にさしかかっていた。
その時である。
グラリ…と、教室や校庭が大きく揺れたかと思うと、聞いた事のないような地鳴りと共に、ガラガラと辺りのものが崩れるほどの大地震が学校中を襲った。
それは子どもだけでなく、教員ですら恐怖を抱くような、かつて経験したことのない大きな揺れが三分近く続いた。
悲鳴をあげる子、泣き出す子、嘔吐する子…と、校内はパニックに陥った。
放送機能はどうにか無事だったので、緊急放送が校内に流された。
「生徒は、ただちに、校庭に集合しなさい。
繰り返します。
校内にいる生徒は、すぐに、校庭に避難して下さい」
放送する教頭自身も、いまだかつて経験したことのない巨大地震に胸の動揺が収まらずにいた。
ワァーワァーという騒ぎ声をあげながら、大勢の子どもたちが校庭へと駆け出してきた。
校門付近には、我が子を迎えようと慌て駆けつけてきた父兄たちの姿もあった。
数人の担任教師が、その対応に当たっており、順次、親に子どもたちを確認しながら引渡していた。
その一方で、別の教師群が、迎えの来ない子どもたちに号令をかけて、整然と校庭に並ばせていた。
子どもたちは、ふだんの授業やホームルーム活動どおり、教師の指示に従順に従っていた。
どの組の誰と誰が居るのかという所在確認は、教師の最優先確認事項である。
このような非常時に、まだ判断力の未熟な児童に、勝手に行動させるようでは、教育機関としての学校の体を為してはいない。
ひと処に集合させ点呼を取る、というのは至極当然な教育指導である。
だが、海に近い学校にあっては、そこから悠長な待機は、危険度を増すことになるのも必然であった。
三陸小学校は、海岸から4キロの処に建っていた。
歴史的にも、数々の津波被害に遭遇した地域柄、地元には「津波てんでんこ」という言い伝えがある。
それは、大地震後、津波が来そうな時には、誰にもかまわず、銘々、自分で逃げよ…という、経験から導かれた助かる処方箋でもある。
しかし、下校時に、まだ校内に残っていた子どもたちは、教師の指示に従うよう教化されていたため、この教訓どおりには行動できなかった。
低中学年にあっては、その教訓すら知らない子もいたであろう。
三陸小学校は、地元では、災害時の避難場所にも指定されていた。
しかし、こと津波に関しては、海抜1メートルのこの学校が避難場所として指定されているのは、如何にもハザードマップとしては誤りとしか言いようがなかった。
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