「モス・ハンター」
という洒落た呼称と
「コケ採り爺さん」
という自虐的呼称を
使い分けている。
♪ きょうもゆくゆく
モス・ハンター ♪
♪ コケとりじいさん
コケとりまんがな~ ♪
最近の散歩では、
もっぱら町内の
コケの繁茂地をチェックして
廻っている。
それが、
ワクワクするから
「無銭遊戯」としては
実にボンビー翁向きである。
思うに、
春のフキノトウ採りと
タケノコ採りにも、
毎度まいど、胸踊り
ワクワクするものである。
タダでいくらでも採れる喜び
というのに
エラク感激する性質(たち)は、
やはり「貧乏根性」なのだろう。
時折、自分はなんで
こんなにボンビーなんだろう、
神様はどーして
お金を沢山与えて下さらんのか、
と考えることがあるが、
思い当たる節がないでもない。
それは、
老母を見てきて
近年、気が付いた。
自分も親に似て、
金銭感覚が
どこか跳んでいるのである。
あれば、あるだけ
使ってしまう。
それで、なければないで、
塩舐めて暮らせるのである。
はやい話、
バカなんだろう(笑)。
知人からは、
「ないからこそ、慎ましく
暮らせるんじゃないですか?」
と諭されて
ナルホドと思ったこともある。
過分にあったら、
きっと愛人を作ったり、
目先の快楽に溺れて、
物事の「真実性」や
「真善美聖」から乖離した
遊興餓鬼道・愛欲畜生道に
陥るのやもしれぬ。
金銭感覚が疎く、
ギャンブラー性があり、
凡庸ライフを嫌うのは、
なんだか若くして
磨り減って消耗死した
モーツァルトを思い出した。
自我脆弱性ゆえに
物欲・所有欲と浪費・困窮の
負のスパイラルに呑まれたら
「欲中毒」「金依存症」になって
身を滅ぼすのであろう。
してみれば、
「天下の周りモノ」が、
こっちに廻ってこないのは、
御神意、神様の恩寵なのかもしれない。
いっそ、
「貧乏是幸ひ」
とでも書いて、
室礼の掛け軸に
飾ろうかしらん(笑)。
『がばいばあちゃん』では
貧乏を苦にせず
むしろそれを楽しく生きる
知恵と逞しさが活写されていた。
『清貧の思想』では、
西行や兼好、長明、良寛、芭蕉など
「世捨て人」たちの
一切を捨てきったシンプル・ライフと
心が充たされる風雅な暮しを
温故知新として知らしめた。
貧乏とは、
「本来無一物」への
回帰なのかもしれない。
事実、
いつ野垂れ死にしてもいいや、
という覚悟は
とうに出来ている。
散歩のたびに
せっせとコケを集めては
ジグソーパズルみたいに
灯篭まわりから
敷き詰めている。
庭全体が風雅な
「苔庭」に生まれ変わる頃、
町内の路傍からは
苔がキレイに
なくなってるだろう(笑)。
高速の鏡石パーキングの
石畳が「市松模様」に
なっていて、まるで
チェスボードのようで
美しかった。
そこに
木漏れ日と
枯葉がほどよく配され、
さながら一枚の
「秋」の構図であった。
散歩がてら
スーパーの鮮魚コーナーで
アルゼンチン赤海老2匹を
200円で買って帰った。
ついでに、
焼き芋コーナーで
半ケ130円も購入。
キッチンの奥に
長らく放置されていた
結婚式の引き出物の
銀トレイを磨きあげて
ランチの“ひとりパーティー”料理を
こしらえてみた。
エビ二尾を梨割りにして
半身四つをグリルパンで
殻の方だけカリリとグリルする。
頭んとこのミソが
火が入るとフツフツいって
美味そうだった。
銀器にアンディーヴ、
舞茸のグリル、
焼き芋(紅あづま)の
トロリとした処をスプーンで
フットボール形にすくい取って添えた。
胡桃パンを三角に切って
サンドイッチ用にセットする。
濃縮トマトジュースに
タバスコ、バルサミコ、
自家製レモンオリーヴ油を加えて
カクテルソースに仕上げた。
エビの身は殻から
ホロリと剥がれ、
パンにとってエビミソを
垂らして味をつけ
アンディーヴを挟んでやってみたが、
なかなか乙なものだった。
これに
バースデイ・ヴィンテージ(60年物)の
マデラ酒を合わせてみたが、
このペアリングは
天国的なヴィアン・マリアージュであった。
清澄な秋に相応しい
モーツァルトのK.136
『ディベルティメント D-Dur』
をBGMに聴きながらの
清貧のなかの
ささやかな贅沢である(笑)。
♪ヽ(´▽`)/ シャ~ワセ~
という洒落た呼称と
「コケ採り爺さん」
という自虐的呼称を
使い分けている。
♪ きょうもゆくゆく
モス・ハンター ♪
♪ コケとりじいさん
コケとりまんがな~ ♪
最近の散歩では、
もっぱら町内の
コケの繁茂地をチェックして
廻っている。
それが、
ワクワクするから
「無銭遊戯」としては
実にボンビー翁向きである。
思うに、
春のフキノトウ採りと
タケノコ採りにも、
毎度まいど、胸踊り
ワクワクするものである。
タダでいくらでも採れる喜び
というのに
エラク感激する性質(たち)は、
やはり「貧乏根性」なのだろう。
時折、自分はなんで
こんなにボンビーなんだろう、
神様はどーして
お金を沢山与えて下さらんのか、
と考えることがあるが、
思い当たる節がないでもない。
それは、
老母を見てきて
近年、気が付いた。
自分も親に似て、
金銭感覚が
どこか跳んでいるのである。
あれば、あるだけ
使ってしまう。
それで、なければないで、
塩舐めて暮らせるのである。
はやい話、
バカなんだろう(笑)。
知人からは、
「ないからこそ、慎ましく
暮らせるんじゃないですか?」
と諭されて
ナルホドと思ったこともある。
過分にあったら、
きっと愛人を作ったり、
目先の快楽に溺れて、
物事の「真実性」や
「真善美聖」から乖離した
遊興餓鬼道・愛欲畜生道に
陥るのやもしれぬ。
金銭感覚が疎く、
ギャンブラー性があり、
凡庸ライフを嫌うのは、
なんだか若くして
磨り減って消耗死した
モーツァルトを思い出した。
自我脆弱性ゆえに
物欲・所有欲と浪費・困窮の
負のスパイラルに呑まれたら
「欲中毒」「金依存症」になって
身を滅ぼすのであろう。
してみれば、
「天下の周りモノ」が、
こっちに廻ってこないのは、
御神意、神様の恩寵なのかもしれない。
いっそ、
「貧乏是幸ひ」
とでも書いて、
室礼の掛け軸に
飾ろうかしらん(笑)。
『がばいばあちゃん』では
貧乏を苦にせず
むしろそれを楽しく生きる
知恵と逞しさが活写されていた。
『清貧の思想』では、
西行や兼好、長明、良寛、芭蕉など
「世捨て人」たちの
一切を捨てきったシンプル・ライフと
心が充たされる風雅な暮しを
温故知新として知らしめた。
貧乏とは、
「本来無一物」への
回帰なのかもしれない。
事実、
いつ野垂れ死にしてもいいや、
という覚悟は
とうに出来ている。
散歩のたびに
せっせとコケを集めては
ジグソーパズルみたいに
灯篭まわりから
敷き詰めている。
庭全体が風雅な
「苔庭」に生まれ変わる頃、
町内の路傍からは
苔がキレイに
なくなってるだろう(笑)。
高速の鏡石パーキングの
石畳が「市松模様」に
なっていて、まるで
チェスボードのようで
美しかった。
そこに
木漏れ日と
枯葉がほどよく配され、
さながら一枚の
「秋」の構図であった。
散歩がてら
スーパーの鮮魚コーナーで
アルゼンチン赤海老2匹を
200円で買って帰った。
ついでに、
焼き芋コーナーで
半ケ130円も購入。
キッチンの奥に
長らく放置されていた
結婚式の引き出物の
銀トレイを磨きあげて
ランチの“ひとりパーティー”料理を
こしらえてみた。
エビ二尾を梨割りにして
半身四つをグリルパンで
殻の方だけカリリとグリルする。
頭んとこのミソが
火が入るとフツフツいって
美味そうだった。
銀器にアンディーヴ、
舞茸のグリル、
焼き芋(紅あづま)の
トロリとした処をスプーンで
フットボール形にすくい取って添えた。
胡桃パンを三角に切って
サンドイッチ用にセットする。
濃縮トマトジュースに
タバスコ、バルサミコ、
自家製レモンオリーヴ油を加えて
カクテルソースに仕上げた。
エビの身は殻から
ホロリと剥がれ、
パンにとってエビミソを
垂らして味をつけ
アンディーヴを挟んでやってみたが、
なかなか乙なものだった。
これに
バースデイ・ヴィンテージ(60年物)の
マデラ酒を合わせてみたが、
このペアリングは
天国的なヴィアン・マリアージュであった。
清澄な秋に相応しい
モーツァルトのK.136
『ディベルティメント D-Dur』
をBGMに聴きながらの
清貧のなかの
ささやかな贅沢である(笑)。
♪ヽ(´▽`)/ シャ~ワセ~
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