歴史の教科書で 維新の功績をたたえられるものたちは 多くは裏切り者である。
薩長....の裏切りものたち ウラにいたのは グラバーという代理人 (フランス革命もロシア革命も仕組まれていた)
高杉晋作、伊藤博文、岩倉具視 坂本龍馬、大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允(旧名:桂小五郎)他
西郷と竜馬は 自分たちがしたことに途中で気が付いたのだろうか さだかではないが...
明治以降も長州の支配はつづいた。長州出身の政治家は最多で8人 → こちら 安倍さんもね 尊敬するひとは吉田松陰
東北は非常に少ない 政治の上では 西高東低
そのわけは....
会津と奥羽越列藩同盟 wikiから
会津藩は京都守護職 庄内藩は江戸市中取締を命ぜられ旧幕府の要職にあり、薩長と対立したために「朝敵」として新政府からの攻撃対象とされ、特に会津藩は幕府派の首魁と目されていた。会津藩内では武装恭順派と抗戦派が対立したが、藩主松平容保は家督を養子の喜徳へ譲り謹慎を行い恭順の意志を示した。奥羽14藩は仙台藩領の白石城において列藩会議を開き、会津藩・庄内藩赦免の嘆願書「会津藩寛典処分嘆願書」などを奥羽鎮撫総督に提出した。会津赦免の嘆願の拒絶によって、奥羽諸藩は朝廷へ直接建白を行う方針に変更することとなった。31藩による奥羽越列藩同盟が成立した。
上野戦争から逃れ、6月6日に会津に入っていた輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)を同盟の盟主に戴こうとする構想が浮上した。当初は軍事的要素も含む同盟の総裁への就任を要請されたが、結局6月16日に盟主のみの就任に決着、7月12日には白石城に入り列藩会議に出席した。
また、輪王寺宮の「東武皇帝」への推戴も構想にあったとされるが、よくわかっていない。確かなのは輪王寺宮が会津入りする以前の4月の段階で用語などが天皇扱いされていたことと、「東武皇帝の閣僚名簿」としていくつかの文書が知られているだけである。当時の日本をアメリカ公使は本国に対して、「今、日本には二人の帝(ミカド)がいる。現在、北方政権のほうが優勢である。」と伝えており、新聞にも同様の記事が掲載されている。
なお、輪王寺宮は列藩会議への出席に先立ち、7月10日に全国の10万石以上の大名に対して、「動座布告文」と「輪王寺宮令旨」を発令している。この中で輪王寺宮は諸大名に対して、『幼君(明治天皇)を操る君側の奸、薩摩・長州を取り除く』ことを強く主張している。政府軍は圧勝し 会津は死者を弔うことも許されず 屍は放置されました。長州の会津への恨みは深かったのです。
長州は忘れなかった!!
輪王寺宮は明治天皇と和解 北白川宮能久親王となられましたが その後ご子息は不慮の事故で亡くなられ 靖国神社に祀られ!! 北白川家は途絶えました。 これはなかなか恐ろしい話です。 → こちら
東北は冷や飯食い ...でした。
長州の背後のひとたちも忘れなかった。
なぜ『3.11』は福島だった? わたしの勝手な憶測.....
過ぎたことは取り返しがつかない。
これからを考えよう、ただし だまされるのはもういやだ。日本のたいせつなものを守ろう。仲間割れは彼らの思うツボ
さりながら 花燃ゆ は 山口....岸・安倍 から 群馬....中曽根 NHK 尻尾ふりすぎです。
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