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スペインとポルトガル15  サン・イシドロ教会(グアダルーペのマリア2)

2021-07-11 11:39:40 | Weblog

写真上の金色の輝きを放つなかに収まっているのがサンイシドロ教会のマリア像の一つ。写真下がメキシコシティのグアダルーペ教会に安置されているグアダルーペのマリア像。
サンイシドロ教会で前回、地元の高齢な女性が祈っていたマリア像のある一角は他とあまりに雰囲気が違っていて写真には収められなかった。それこそ、地味でメキシコで見た像に似ていたと感じたのだが。

※外国で名所めぐりをすると教会に行く機会が増えます。今回は日本で教会にほとんど行ったことがない私が感じた素朴な疑問から。

【グアダルーペのマリア】
 なぜマドリードのイシドロ教会とメキシコで見たグアダルーペのマリアに似ている、と思うのかを真面目に考えてみました。

ウィキペディアのグアダルーペ(スペイン)の項を見ると、

「もともとグアダルーペのマリアは、『ルカの福音書』の著者とされるルカが彫った彫像でその像はルカとともに埋葬された。4世紀に掘り起こし、コンスタンティノープルに移送。それをローマのグレゴリウス一世が礼拝堂を作って納め、ローマにペストが流行したときにはその像にも祈った。そしてペストの大流行が治まったのちに、セビリアの大司教レアンドロにこの彫像を送った。その時移送を行ったのが、修道士イシドロだった。」

その後、その像は数奇な運命をたどります。

「セビリアが714年にイスラム教徒に侵攻され、聖職者らがこの像も持って北へ逃げた。途中、エストレマドゥーラ州の川岸に埋めた。グアダルーペとは『隠された川』を意味する。
 時が経ち、14世紀前半ごろに羊飼いがお告げを聞いて掘り起こすと、この像が現れた。それを祀る修道院が建てられ、一時は町の名前もグアダルーペと名付けられた。」

 この解説を読むと、もともと彫像には「グアダルーペの聖母」という名前はついていなかったこと、またこの像を2度も「掘り起こして発見」していることに気づきます。

 掘り起こす話は眉につばを付ける必要がありそう。その部分の真偽はともかく「グアダルーペのマリア」をイシドロがローマからセビリアに運んだくだりは動かしようがなさそうです。

「それで教会に祀られていたんだ」と合点しそうになって、さらに調べると、同じイシドロでも違う人だとわかりました。

セビリアに運んだイシドロは560年ごろに生まれたセビリア生まれの神学者。ウィキペディアでは「イシドールス」(スペイン語: San Isidoro de Sevilla、ラテン語: Isidorus Hispalensis )という名で登録されています。この話に出てくるセビリアの大司教のレアンドロはイシドロのお兄さん。一方でマドリードのイシドロ教会に祀られているのは1070年にマドリードの生まれた農夫でした。

 またサン・イシドロ教会のホームページを見ると、私がメキシコでみたグアダルーペのマリアにそっくり、と思った像は17,8世紀に作られたマリア像らしく、その写真の下には「天国には大きなしるしが現れました。太陽をまとった女性、足の下に月があり、頭には12個の星の冠があります。」App.12.1
と書かれています。

上記の文言はまさにメキシコで見た像と一致します。この姿は「無原罪のマリア」と呼ばれる、一般的な図像の姿なのだそう。つまり、スペインで祀られるマリア像の形態の一つがメキシコであがめられるようになったということなのでしょう。

イシドロの妻も祀られていて、その名もマリア、そしてキリストの母・マリア。ともかく、この教会にはマリア像がほかにもたくさんあって、大切にされていました。
(つづく)

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