デヴィッド・グレーバー/著、 酒井 隆史/訳、芳賀 達彦 /訳、森田 和樹/訳 「ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論」読了
この本、というか、この言葉は最近けっこう流行っているそうだ。そして僕も、ああ、そういうのってあるよな、でもそれを言ってしまってはおしまいじゃないかとタジタジとなってしまった。
この本でいう、「ブルシット・ジョブ」とは、時間労働の中でただ、時間を浪費するためだけに作られた仕事という意味合いのものであるとわかる。
タイトルを読みながら、ああ、これは僕みたいな人間がやっている仕事のことじゃないだろうかと恐れを抱きながら読み始めたのだが、ちょっと違っていた。
確かに、僕がやっている仕事もどうだかと思うし、就業時間内で十分終わってしまう仕事だ。しかし、ホワイトカラーとしては、残った時間に何をするかで会社の中で重要視されるかどうかが決まってくるのだろうなと改めて思い直してしまった。
居眠りをしているんじゃなくて新しい企画の種を考えるとかエイギョウケイカクに役立つ指標を見つけ出すとかそういうことをやり続けなければならないのがホワイトカラーの仕事の仕方だ。ただ、そもそもの業務に対してブルシットの気持ちを持ってしまうとそういう意欲が湧いてこないし、これまでもそうだったが新しい提案をしても良いとも悪いとも、ここをこうすればいいのじゃないかとか何も言われたことが一度もないとなるとブルシットがブルシットとしか見えなくなる。そんなことをかれこれ30年以上も続けてきてここに至ったような気がする。特に、管理職というようなものになってからはもっとそういう気持ちが強くなってきた。
半端なことを考えずに、とにかく休日も出勤してデスクに座っておくというのがわが社でもついこの前までの成功の道のように見えていた。いやいや、そんな人たちも密かに名案を作り出して業績に貢献していたのかもしれないが・・。
この本は、なぜそういった仕事が生まれ、効率重視の世の中で消滅していかないのかということを考察している。
まず、この本でのブルシット・ジョブの定義は、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化し難いほど完璧に無意味で不必要で有害でもある雇用の形態。そして、本人もそう思っていることが重要であるとされている。
部分的に仕事もあるが、この本では純粋なブルシット・ジョブを取り扱う。僕がやってきた仕事も、“部分的”なブルシット・ジョブであったのだろうと思う。
1930年、ケインズは20世紀までにテクノロジーの進歩により週15時間の労働が達成されるだろうと予測していた。しかし、実際はますます仕事の量は増えている。その仕事の大半は、ブルシット・ジョブ(くそどうでもいい仕事)であるというのが著者の見解だ。
テクノロジーが進歩し、すべての業務が効率的になってきたが、人間は仕事がなくなるのが困るので様々な無駄な仕事を作りだしてきたというのだ。そのほとんどは管理部門といわれる部分の仕事である。
時間の尺度が日の出から日没までを12等分していたころには時給というような概念はなかった。時間を売って日銭を稼ぐという感覚は当時の人々には奇妙に映ったに違いないという、時間というあいまいなものを売れるのか。そういう感覚だ。その頃は自分が作り出したものを売っていくらになるかということだけであった。その物を作り出すのに何時間かかったかということは関係なかった。
おそらく産業革命が始まったころになるのだろう。工場労働が始まると労働時間を賃金に引き換えるという形式がはじまる。それは、どんなに速く仕事を片付けても労働時間内は拘束されるという世界だ。その隙間にブルシット・ジョブが生まれてくる。
ブルシット・ジョブが生まれるきっかけはまだほかにもある。いくつかの例があがっている。その時間内である仕事が終わっても次にあてがわれる無駄な仕事、ある上司の見栄のために採用された秘書役や書類作成の代行などの役割、役所の書類作成のためだけの仕事などだが、それは日本人の僕が読んでいると、そんなことをするためだけの仕事ってあるの?と思うようなものも出てくるが、そんなことを思わなくても 僕のすぐそばにもいっぱいある。たとえば、メンバーがきちんと顧客に電話をし続けているかどうかを監視するためのシート作りや、エイギョウケイカクやフソクタイサク、ゲツマツウリアゲヨソウ・・。確かに管理部門の仕事が多そうだ。経費削減という大義名分だけで何の戦力にもならない人間をコンビニで働かせるというのも間違いなくブルシット・ジョブだったのだろう。
この本にもそっくりなことが書かれていて、時間つぶしに整然と整えられている陳列棚の商品をきちんと並べ直す仕事ってまさに僕がやっていたことにほかならなかった。
そして問題なのが、そういった仕事は無駄であるというだけでなく、人の心を蝕むというのだ。人の役に立っていないと思うこと、無駄なことをしているということだけで人は病を引き起こす。
これもアメリカの話なのだからだろうが、そういった人たちの中のいくらかは内職や別の暇つぶしを見つける。上司に見つからないように副業や趣味に時間を潰す。これもコンピューターの画面に向かって仕事をするようになった現代ならではということなのだろう、モニターに向かってキーボードを叩いていると仕事をしているのかまったく違うことをしているのか一見わからない。
著者の見解では、TwitterやFacebookなどのSNSがこれだけ広がったのはブルシット・ジョブが生み出した“暇”のせいだというのである。ある意味納得した。
こういうことをテーマにした本には、必ず、「ベーシックインカム」ということに触れた内容が入っている。この本もそうであったが、ベーシックインカムを導入することによって労働と生活を切り離すことができるというのがこの本の主張である。人は生きるために働かなくてもよくなるというのである。
財源をどうするかということまでは言及されていないけれども、ベーシックインカムで問題にされている、生きることに対する意欲がなくなるのじゃないかということや、暇を持て余して犯罪が増えるのじゃないかということに対しては、多少そういうことがあるかもしれないが、一説には労働の37%がブルシット・ジョブであるという大きな問題と比較して、犯罪や自殺が数パーセント増えたところでそれほど問題ではないだろうというのである。人を飢えさせないためだけにあるブルシット・ジョブに就いていた人たちもそれから解放され、そのせいで仕事がなくなってもベーシックインカムがるから大丈夫なのだ。ベーシックインカムに加えてささやかな収入を得たければブルシット・ジョブでない仕事(ケインズが予言した週15時間
で十分という部分の仕事)をすればいいのだというのだ。
また、基本インフラや少しのテクノロジーの進歩もなくなってしまうのではないかという懸念に対しては、絶対にボランティア精神でそういうことに貢献したい人たちが現れるという。人は誰かの役に立っていると思わないと生きてゆけないからだそうだ。確かにそう言われればそう思えてしまう。だからブルシット・ジョブに人々は苦悩するというところは論としては整合性があるように思う。
まあ、確かに、アホみたいな仕事をグダグダやってるのなら質素でもいいから小さな幸せを見つけるほうがよほど人間的であるとも思うのだ。特に歳をとるほどそういう思いが強くなってくる。僕にも誰か奇特な人がベーシックインカムを恵んでくれないかしら・・。
この本の構成は、様々な人々の体験談を挙げながらブルシット・ジョブが生まれた原因、弊害、その歴史などを説明している。しかし、それはどうも科学的なものではなく、感情論的なものであるように思う。事実、ブルシット・ジョブであることの条件として、自分がそう認識していることとある。
となると、五百羅漢像の中に自分の似姿を見つけるように、たくさんの体験談の中から自分と同じようなブルシット・ジョブを探しながら、自分だけがそうなのではないと安心をするためのだけの400ページだと言えなくない。
それじゃあ、ちょっと寂しいなとも思うのであった。
今度の異動先の仕事はブルシットなのか、それとも生産的なのか、どちらにしてもこの業種は社会貢献という面では全くクソどうでもいい業種だ。コロナでも大地震でもえいぎょうしていてもいなくても人々の生活にはまったく影響がない。
と、いうことは、あとは気持ちの問題である。完全に萎えてしまったモチベーションを復活させることはできるだろうか・・。
古来、人の役に立つ神聖な仕事はおカネに換算するということはタブーだとされてきた。だから人の役に立つ仕事ほど賃金が安いというのがどの国でも共通していることだそうだ。
この本、というか、この言葉は最近けっこう流行っているそうだ。そして僕も、ああ、そういうのってあるよな、でもそれを言ってしまってはおしまいじゃないかとタジタジとなってしまった。
この本でいう、「ブルシット・ジョブ」とは、時間労働の中でただ、時間を浪費するためだけに作られた仕事という意味合いのものであるとわかる。
タイトルを読みながら、ああ、これは僕みたいな人間がやっている仕事のことじゃないだろうかと恐れを抱きながら読み始めたのだが、ちょっと違っていた。
確かに、僕がやっている仕事もどうだかと思うし、就業時間内で十分終わってしまう仕事だ。しかし、ホワイトカラーとしては、残った時間に何をするかで会社の中で重要視されるかどうかが決まってくるのだろうなと改めて思い直してしまった。
居眠りをしているんじゃなくて新しい企画の種を考えるとかエイギョウケイカクに役立つ指標を見つけ出すとかそういうことをやり続けなければならないのがホワイトカラーの仕事の仕方だ。ただ、そもそもの業務に対してブルシットの気持ちを持ってしまうとそういう意欲が湧いてこないし、これまでもそうだったが新しい提案をしても良いとも悪いとも、ここをこうすればいいのじゃないかとか何も言われたことが一度もないとなるとブルシットがブルシットとしか見えなくなる。そんなことをかれこれ30年以上も続けてきてここに至ったような気がする。特に、管理職というようなものになってからはもっとそういう気持ちが強くなってきた。
半端なことを考えずに、とにかく休日も出勤してデスクに座っておくというのがわが社でもついこの前までの成功の道のように見えていた。いやいや、そんな人たちも密かに名案を作り出して業績に貢献していたのかもしれないが・・。
この本は、なぜそういった仕事が生まれ、効率重視の世の中で消滅していかないのかということを考察している。
まず、この本でのブルシット・ジョブの定義は、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化し難いほど完璧に無意味で不必要で有害でもある雇用の形態。そして、本人もそう思っていることが重要であるとされている。
部分的に仕事もあるが、この本では純粋なブルシット・ジョブを取り扱う。僕がやってきた仕事も、“部分的”なブルシット・ジョブであったのだろうと思う。
1930年、ケインズは20世紀までにテクノロジーの進歩により週15時間の労働が達成されるだろうと予測していた。しかし、実際はますます仕事の量は増えている。その仕事の大半は、ブルシット・ジョブ(くそどうでもいい仕事)であるというのが著者の見解だ。
テクノロジーが進歩し、すべての業務が効率的になってきたが、人間は仕事がなくなるのが困るので様々な無駄な仕事を作りだしてきたというのだ。そのほとんどは管理部門といわれる部分の仕事である。
時間の尺度が日の出から日没までを12等分していたころには時給というような概念はなかった。時間を売って日銭を稼ぐという感覚は当時の人々には奇妙に映ったに違いないという、時間というあいまいなものを売れるのか。そういう感覚だ。その頃は自分が作り出したものを売っていくらになるかということだけであった。その物を作り出すのに何時間かかったかということは関係なかった。
おそらく産業革命が始まったころになるのだろう。工場労働が始まると労働時間を賃金に引き換えるという形式がはじまる。それは、どんなに速く仕事を片付けても労働時間内は拘束されるという世界だ。その隙間にブルシット・ジョブが生まれてくる。
ブルシット・ジョブが生まれるきっかけはまだほかにもある。いくつかの例があがっている。その時間内である仕事が終わっても次にあてがわれる無駄な仕事、ある上司の見栄のために採用された秘書役や書類作成の代行などの役割、役所の書類作成のためだけの仕事などだが、それは日本人の僕が読んでいると、そんなことをするためだけの仕事ってあるの?と思うようなものも出てくるが、そんなことを思わなくても 僕のすぐそばにもいっぱいある。たとえば、メンバーがきちんと顧客に電話をし続けているかどうかを監視するためのシート作りや、エイギョウケイカクやフソクタイサク、ゲツマツウリアゲヨソウ・・。確かに管理部門の仕事が多そうだ。経費削減という大義名分だけで何の戦力にもならない人間をコンビニで働かせるというのも間違いなくブルシット・ジョブだったのだろう。
この本にもそっくりなことが書かれていて、時間つぶしに整然と整えられている陳列棚の商品をきちんと並べ直す仕事ってまさに僕がやっていたことにほかならなかった。
そして問題なのが、そういった仕事は無駄であるというだけでなく、人の心を蝕むというのだ。人の役に立っていないと思うこと、無駄なことをしているということだけで人は病を引き起こす。
これもアメリカの話なのだからだろうが、そういった人たちの中のいくらかは内職や別の暇つぶしを見つける。上司に見つからないように副業や趣味に時間を潰す。これもコンピューターの画面に向かって仕事をするようになった現代ならではということなのだろう、モニターに向かってキーボードを叩いていると仕事をしているのかまったく違うことをしているのか一見わからない。
著者の見解では、TwitterやFacebookなどのSNSがこれだけ広がったのはブルシット・ジョブが生み出した“暇”のせいだというのである。ある意味納得した。
こういうことをテーマにした本には、必ず、「ベーシックインカム」ということに触れた内容が入っている。この本もそうであったが、ベーシックインカムを導入することによって労働と生活を切り離すことができるというのがこの本の主張である。人は生きるために働かなくてもよくなるというのである。
財源をどうするかということまでは言及されていないけれども、ベーシックインカムで問題にされている、生きることに対する意欲がなくなるのじゃないかということや、暇を持て余して犯罪が増えるのじゃないかということに対しては、多少そういうことがあるかもしれないが、一説には労働の37%がブルシット・ジョブであるという大きな問題と比較して、犯罪や自殺が数パーセント増えたところでそれほど問題ではないだろうというのである。人を飢えさせないためだけにあるブルシット・ジョブに就いていた人たちもそれから解放され、そのせいで仕事がなくなってもベーシックインカムがるから大丈夫なのだ。ベーシックインカムに加えてささやかな収入を得たければブルシット・ジョブでない仕事(ケインズが予言した週15時間
で十分という部分の仕事)をすればいいのだというのだ。
また、基本インフラや少しのテクノロジーの進歩もなくなってしまうのではないかという懸念に対しては、絶対にボランティア精神でそういうことに貢献したい人たちが現れるという。人は誰かの役に立っていると思わないと生きてゆけないからだそうだ。確かにそう言われればそう思えてしまう。だからブルシット・ジョブに人々は苦悩するというところは論としては整合性があるように思う。
まあ、確かに、アホみたいな仕事をグダグダやってるのなら質素でもいいから小さな幸せを見つけるほうがよほど人間的であるとも思うのだ。特に歳をとるほどそういう思いが強くなってくる。僕にも誰か奇特な人がベーシックインカムを恵んでくれないかしら・・。
この本の構成は、様々な人々の体験談を挙げながらブルシット・ジョブが生まれた原因、弊害、その歴史などを説明している。しかし、それはどうも科学的なものではなく、感情論的なものであるように思う。事実、ブルシット・ジョブであることの条件として、自分がそう認識していることとある。
となると、五百羅漢像の中に自分の似姿を見つけるように、たくさんの体験談の中から自分と同じようなブルシット・ジョブを探しながら、自分だけがそうなのではないと安心をするためのだけの400ページだと言えなくない。
それじゃあ、ちょっと寂しいなとも思うのであった。
今度の異動先の仕事はブルシットなのか、それとも生産的なのか、どちらにしてもこの業種は社会貢献という面では全くクソどうでもいい業種だ。コロナでも大地震でもえいぎょうしていてもいなくても人々の生活にはまったく影響がない。
と、いうことは、あとは気持ちの問題である。完全に萎えてしまったモチベーションを復活させることはできるだろうか・・。
古来、人の役に立つ神聖な仕事はおカネに換算するということはタブーだとされてきた。だから人の役に立つ仕事ほど賃金が安いというのがどの国でも共通していることだそうだ。