柴崎友香 「かわうそ堀怪談見習い」読了
著者は芥川賞作家だそうだ。受賞作というのが、東出昌大の不倫の発端となった映画の原作だったらしい。
どこでこの本の名前を知ったのかを覚えていないのだが、この本の内容もそういった、忘れられた人の記憶のはざまの中で繰りひろげられる不思議な世界を書いている。
主人公はまだデビューしてそれほどの間がたっていない小説家だ。デビュー作に恋愛小説を書いた覚えはなかったのだがなんの幸運かドラマになった。その後、「恋愛小説家」と自分の写真の下に肩書として書かれていたことを見て、恋愛小説を書くのをやめようと思い、別の棚に並べられる本を書こうと決め、怪談を書くことにした。
新しいことを始めるのにちょうどいいということもあり、郷里の街に3年ぶりに戻ってきたという設定である。
小説のネタを探すため、再会した幼馴染のたまみやその知人の体験談、街で出会った不思議な体験が短編集のようにつながっているという構成だ。
「怪談見習い」というのがどういう意味で使われているのかはわからないが、怪談というには恐怖感がまったくない。だから僕も最後まで読めたというところなのではあるけれども。
物語の最後のほうで、「それまで暮らしていた世界と、別の世界との隙間みたいなところに、存在するようになっていたのだ。」と書かれているとおり、人々の生活のはざまの中で誰かがそれを見ている人がいる。ふとしたはずみにそれが見えるのだというような話が続く。
かといってその誰かがなにか悪いことをするというのでもない。ただ、見ているだけだ。それは、過去と未来をつないでいる何かを忘れないでくれと語りかけているかのようである。人はそうやって命をつないでいっているのであるといいたいのかもしれない。
道元の考えでは、「人生というのはスライスされた時間が積み重なったものである。」とされているが、その誰かたちはスライスされた時間をつなぎとめている役割を担っているのではないだろうかと、ふとそんな考え方をしてみた。
今だけを生きるとはいっても、未来はどうかわからないけれども、過去に対しては何かが残って積み重なっているのだとそういったことを教えてくれているようだ。
物語の舞台になった「かわうそ掘」というのは、大阪市内にあった、海部堀川(かいふぼりがわ)という今はなくなってしまっている運河がモデルのようだ。同じく、「うなぎ公園」という公園は、靭公園があてはまる。著者は大阪出身だそうで、郷里の街も自身の出身地である大阪を舞台にしているのだろう。ちなみに僕も同じ大学を卒業している。この大学、藤本義一、東野圭吾という作家が卒業している。僕みたいなクズもいればこんなすごい人達もいるのだ・・。
この辺りは大阪大空襲で多くの被害が出た場所でもある。その誰かたちも犠牲者のひとりだったのかもしれないとも思えるのである。
大阪大空襲は1945年3月13日深夜から始まったそうだ。同じ3月にこの本を手にしているというのもやはりその誰かたちに背中を押されてのことだろうかとも思うのである。
著者は芥川賞作家だそうだ。受賞作というのが、東出昌大の不倫の発端となった映画の原作だったらしい。
どこでこの本の名前を知ったのかを覚えていないのだが、この本の内容もそういった、忘れられた人の記憶のはざまの中で繰りひろげられる不思議な世界を書いている。
主人公はまだデビューしてそれほどの間がたっていない小説家だ。デビュー作に恋愛小説を書いた覚えはなかったのだがなんの幸運かドラマになった。その後、「恋愛小説家」と自分の写真の下に肩書として書かれていたことを見て、恋愛小説を書くのをやめようと思い、別の棚に並べられる本を書こうと決め、怪談を書くことにした。
新しいことを始めるのにちょうどいいということもあり、郷里の街に3年ぶりに戻ってきたという設定である。
小説のネタを探すため、再会した幼馴染のたまみやその知人の体験談、街で出会った不思議な体験が短編集のようにつながっているという構成だ。
「怪談見習い」というのがどういう意味で使われているのかはわからないが、怪談というには恐怖感がまったくない。だから僕も最後まで読めたというところなのではあるけれども。
物語の最後のほうで、「それまで暮らしていた世界と、別の世界との隙間みたいなところに、存在するようになっていたのだ。」と書かれているとおり、人々の生活のはざまの中で誰かがそれを見ている人がいる。ふとしたはずみにそれが見えるのだというような話が続く。
かといってその誰かがなにか悪いことをするというのでもない。ただ、見ているだけだ。それは、過去と未来をつないでいる何かを忘れないでくれと語りかけているかのようである。人はそうやって命をつないでいっているのであるといいたいのかもしれない。
道元の考えでは、「人生というのはスライスされた時間が積み重なったものである。」とされているが、その誰かたちはスライスされた時間をつなぎとめている役割を担っているのではないだろうかと、ふとそんな考え方をしてみた。
今だけを生きるとはいっても、未来はどうかわからないけれども、過去に対しては何かが残って積み重なっているのだとそういったことを教えてくれているようだ。
物語の舞台になった「かわうそ掘」というのは、大阪市内にあった、海部堀川(かいふぼりがわ)という今はなくなってしまっている運河がモデルのようだ。同じく、「うなぎ公園」という公園は、靭公園があてはまる。著者は大阪出身だそうで、郷里の街も自身の出身地である大阪を舞台にしているのだろう。ちなみに僕も同じ大学を卒業している。この大学、藤本義一、東野圭吾という作家が卒業している。僕みたいなクズもいればこんなすごい人達もいるのだ・・。
この辺りは大阪大空襲で多くの被害が出た場所でもある。その誰かたちも犠牲者のひとりだったのかもしれないとも思えるのである。
大阪大空襲は1945年3月13日深夜から始まったそうだ。同じ3月にこの本を手にしているというのもやはりその誰かたちに背中を押されてのことだろうかとも思うのである。