ミーロの日記

日々の出来事をつれづれなるままに書き綴っています。

十分、味わって

2014-07-04 17:40:39 | 日記
テレビなどで美智子皇后陛下のお姿を拝見するたびに、「聖母マリア」を連想するのは私だけだろうか。

慈愛に満ちたそのお姿は、まさにマリア様そのものだと思う。

「聖母マリア」

この言葉を目にすると今だに、子供の頃に感じたあのなんともいえない切ない気持ちがよみがえって来る。

私が5歳の時、一緒に暮らしていた祖母が近所の病院に長く入院していた。

私は母と一緒に祖母の見舞いに、よくその病院を訪れた。

その病院はカトリック系だったため、玄関ホールには聖母マリアの絵が飾られ、病院の中庭に大きくて真っ白いマリア様の像が建っていた。

母が祖母の世話をしている間、時々私は中庭のマリア像を見に行った。

大きくそびえるように建っているマリア像を見上げていると、マリア像の意味も分からなかったが、なぜか胸がきゅんとなったことを覚えている。

子供心にもマリア像から漂ってくる慈愛を感じていたのかもしれない。

ところで、大人になってから気がついたのだが、私が生まれ育った家は、周囲にマリア様を信仰する教会を始め、カトリック系の病院、そしてカトリック系の学校が3つもあり、まさにマリア様に囲まれた場所だった。

その場所は特にカトリック信者が多い場所というわけではなく、それらの施設も全て別の法人が経営していたので、ただ偶然にそれぞれ建てた場所が近かったのだと思う。

とはいえ、これまでの私の人生の中でカトリックを信仰しようと思ったことは一度も無い。

それがある日、自分の中でつながった。(以下は私の妄想だと思って頂いてもかまいません)

なぜそのような場所で生まれ育ったのか分かったような気がした。

私はマリア様の近くに居たかったのだ。

人はみんな自分で生まれる場所や親などを選んで生まれてくるという。

まさに私もその場所を選んで生まれてきたのだと思う。

何年か前だったが、何度も何度も見えてくる映像があった。

最初は人の姿だった。

それは修道女だと分かった。

灰色の修道服を着ている。

次に見えてきたのが外国だと思われる室内の風景。

入り口から見ている風景だと思うが、部屋の突き当たりに、厚い木製の両開き扉のある小さな窓があった。

そして窓は開いており外の風景、ヨーロッパの古い建物が見えた。

部屋の中は向かって左側にベッドがあり、右側には壁に向かって小さな木の机と椅子があるだけの簡素な作りだった。

机の上には一冊の本が置かれていた。

これは私の前世だったのだと、その時なぜか強くそう思った。

私が見た修道女は自分であり、部屋は私が住んでいた所。

そして、国はたぶんフランス。

私がまだ20代の頃、初めてフランスへ旅行に行くことになった時のこと。

その旅行の一ヶ月前に夢を見た。

それは見知らぬ外国の風景だった。

そして、そんな夢のことは忘れていたが、実際にフランスのある場所に行った時、まさしく夢で見たのと同じ風景が目の前に広がっているのを前にして、鳥肌が立った事がある。

修道女をしていた頃は、強い信仰心を持ってマリア様の前で祈りの日々だったのだろうと思う。

とても強く信仰していたので生まれ変わった後も、しばらくはマリア像の見える場所にいたいと思ったのかもしれない。

ただし、カトリックを信仰するという人生はもう選ばなかった。

それは十分経験したから、今度は結婚して家族を持つということに挑戦したのだと思う。

ここ何年もマリア像は見ていないが、今マリア像の前に立ったら、どのような気持ちになるのだろうか。

また切ない気持ちになるのだろうか。

それにしても、人はこのように色々な人生を経験して生死を繰り返していくのだなぁと思う。

私のように前世からの強い思いを残している人もいるのだろう。

ただ、それはもう過ぎ去ったこと。

一つの人生の中で十分経験して、もうカトリックを信仰する人生を選ばなかったように、今また今世では自分が希望していた家庭を持つということを十分に味わい、楽しみたいと強く思う。

悩んだり苦しんだりすることも、後になってみれば全て自分にとって必要なことだったとわかる。

そんな葛藤を持つことも、実は今のこの人生を味わっている最中なのだと思うと、乗り越えていける気がしてくる。













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