5月29日(水) 曇
出勤の途中からでもあろうか、長男からLINEメールが届いた。
「祝 博民さまご生誕94周年! 今晩寄ります。」
平成7年2月に夫が逝ってから今年で29年になる。 その間毎年、二人の息子は一度も欠かすことなく祥月命日に集い、5月の誕生日にも律義に祝ってくれる。
堺に住んでいたころの長男は、深夜、白いカサブランカを抱えて帰省し、翌早朝にあわただしく出勤していったりもしてくれた。
それだけ、早くに逝った父親に、長子として哀惜の思いを残しているのであろうと思う。
今年も次男が戻り、夜は夫と父の在りし日の思い出話が尽きない三人会となった。
児戯に等しいような数々のエピソードや、一方で凛とした姿など、懐かしい思い出話に時を忘れた。
64歳という早い年齢で、たった4日間の入院で、あっけなく逝った夫は息子たちに格別の衝撃を残した。それだから、在りし日の夫の思い出を軸に、遺家族の絆が母子の「三人会」として残り、年間5回は必ず一家9人が墓前に額づく習慣をも作った。
人は必ず死ぬ存在であってみれば、長く生きることが善というわけでは無く、【いかにより良く生きるか、後に残ったものに何を残すか】が問われることになる。
その意味で、夫は息子たちと私に「生きることの意味」を問いながら逝った。
【報恩・感謝】の思いを残して逝った。
おかげで、固い絆とより良く生きることを常に自らに問い直して生きられる。
行き届かないけれど、やり遂げてもいないけれど。
…有難いことである。
居間のテレビの横に夫の遺影が飾られ、18年生きた猫の置物もあり、私は常に向き合って座り、遺影の前の時計を見るたびに亡夫と語り合うことになる。
おかげで余命半年から29年もの長きを生きて来られたのか?
「お父さんはあなたに自分の寿命を置いて逝ったんやから、 もらった命を大事にしてね!」と息子たちに言われるたびに、申し訳なく有難く、切なくなる。
だから、生きる意味を自らに問い直す。
より良く生きよう!と、心に誓う。
気障だけれど、嘘っぽいけれど。
本当なのだから。
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