7月3日(土) 雨時々曇
降り続く雨に、緩んだ地盤が地滑りを起こし、熱海の山地から街に向かって激しい土石流が押し寄せる光景をテレビで見て、息を飲んだ。
同時に、先の東北大震災の折の津波に流される家々の画像なども思い出し、私たちは自然のもたらす災害の前に、なんと無力であることだろう、と再認識せざるを得ない。
10年前、東北大震災のあの時、当時の石原慎太郎・東京都知事は、「被災された方には非常に無残な言葉に聞こえるかもしれませんが…」と前置きして、「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と直言なされ、一部の方々のひんしゅくを買ったものの、同じ発想で、関東大震災の折に、新渡戸稲造博士らが往時の軽佻浮薄への「天罰である」と評しておられると、のちに石原さんご自身の言葉で語っておられる。
天災、天罰。
いったい、何に対してなのか?
司馬遼太郎さんの言葉の中に、その答えがあるように思う。
司馬さんは絶筆となった平成8年2月12日付の産経新聞1面のコラム『風塵抄』で、「日本に明日をつくるために」 のテーマのもと、「ひとびとに恒心がなければ、社会はくずれる」 と諭しておられる。
高校時代、漢文の時間に『恒産なくして恒心なし 』(孟子・梁恵王上 )と習った。
「定まった生業や安定した財産がなければ、定まった正しい心(「常に保持して変えない心=道徳心)を持つことができない」の意であるが、今日のこの悲惨な天災に、敢えて石原さんの言葉をお借りして、「被災された方には非常に無残な言葉に聞こえるかもしれませんが…、今を生きる私たちに、天は恒心を求めておられるのではないでしょうか」と思う。
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雨上がりの午後、玄関周りの花鉢の花殻摘みをしていたら、大きな鳳蝶が、まるで天空からふうわりと舞い降りてきたかのように表れ、緋色も鮮やかなアメリカのうぜんかずらの花に留まり、ぐぐんと花の中に身を潜ませた。
毎年、初夏に姿を現す鳳蝶。
「あぁ、お父さん。 今年も来てくれたのね」
蝶は、この世の亡夫の形代だ、と思っている。
とりわけ、鳳蝶は!
蝶全般には「復活・死と再生・変化」の意味がある、とされているけれど、中でも鳳蝶には、「上向きに好転する、繁栄する、財が増え、若返る」という意味もある、という。
理由も裏付けもない言葉遊びなのかもしれないけれど、さくらは信じる。
「物事の良いほうを信じる」と教えてくださったのは、国士・樋口廣太郎さん(元住友銀行副頭取、アサヒビール社長、会長。政府委員他多数)だ。
さくらは、向日的な樋口さんの生き方に倣って生き延びてきた。
今夜は、熱海の被害者さんがたと樋口さんに、謹んで追悼の誠を捧げ祀る夜にしよう。
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