マンションの新年会に出席した時、不思議なことに気がついた。何人かが私のところへわざわざ来て挨拶してくれた。社会人になったばかりの頃、職場で宴会が行なわれると、新任の者は役職のところへお酒を注ぎにいった。それは作法であり習慣であった。マンションのような生活の場でも、こうした新年会のような席では、目下の者が目上の者、とりわけ自治会の重鎮といわれる人たちのところへ挨拶にいった。いわゆる長老参りである。
私は権威に反抗的であったし、上の者にへつらって出世しようとする魂胆が嫌で、そうした行為を軽蔑してきた。だから、わざわざ自分に挨拶しに来る人がいることに気が付かなかった。知らない間に自分が長老になっていたことがとても恥ずかしくなって、そこそこで家に帰ってきた。600余所帯のマンションにはいろんな人がいる。私が首長選挙に出馬した時はかなりの人々が応援してくれた。
けれど、議員選挙に立候補した時、応援してくれた人から、「自分が出たかったのに」と面と向かって言われた。私はマンションの票だけをあてにしていなかったし、全域で票を集める活動を行なってきた。だから、「立候補は自由ですから、されたらいかがですか」と言ったけれど、彼は応援してやったのだから、次は応援してもらえると思っていたらしい。どういう考えの人なのか、何がしたいのかも分からずに、どうして応援が出来るだろう。そうしたことが彼には理解してもらえなかった。
この小さなマンションでも派閥のようなものがある。自治会長は管理事務所長が嫌いで辞めさせたい、事務所長は辞めるのは自治会長だと対立している。マンションの住民の利益を考えればふたりとも辞めてもらった方がいい。けれども私がどちらかに加担をすれば、片方から恨まれることになる。正義感に基づいて発言や行動しても、どれほどのことにもならないだろう。流れに任せることは自己保身でしかないけれど、正義などはどこにもないようにも思う。
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