知り合いが、「これから訪ねて行っていいか?」と電話してきた。同じマンションの友人の家にいると言われて断れるはずもない。彼は書家でいつも招待状をいただくので、美術館では会っているけれど、それ以上の付き合いは無かったのでちょっとビックリした。
会ってみると、話は尽きなかった。彼は私よりも上の昭和9年生まれだった。小学校の時の担任が後に県の教育長になったとかで、「お前が大学を卒業していれば、大学の教授にしてやったのに」と言うほど権勢を誇った人だったようだ。彼の同級生で教員になった者は、その先生の意向でみんなよりも早く校長になったとも言う。
「豪快な先生で、飲み会をやるなら俺の家でやれ。会費は要らんと言うが、台所に仕出し屋がいて、豪勢な料理が振舞われた。ああいう人でなければ上に立てない時代だった」と話す。彼は幼い時から書に魅了され、高校生の時、日展の展覧の手伝いをしたと言う。その時、とても目を引く作品に出合った。開会されてその作品を見ると特賞だったそうで、その人の弟子になった。
けれど、その先生は表彰に金品が付いて回ることに嫌気がさして日展を飛び出したので、彼も日展とは無縁な書家になった。芸術はとても純粋なものなのに、表彰となると汚いものが伴うようだ。白黒だけの勝負の書は、私は怖くてやってみたいという気になれなかったが、文字の意味するものを白黒のバランスや筆の勢いで表現する潔さが魅了するのかも知れない。
所属する団体によって、絵も書も解釈は異なる。「人生は出遭いである」と誰かが言っていたけど、誰とどんな出遭いがあるかで、人生は大きく変わる。せっかく出遭いが訪れているのに、掴み損なることもある。自分の中に情熱が無ければ、出遭いも生まれないのかも知れない。
この方同様に賞をもらうのも派閥、金品で決まる事に嫌気がさして辞めましたが趣味として楽しんでますよ、もし書家になってたら私との出会いもなかったでしょう。
今年亡くなられた篠田桃紅を知ってから私は「書」は「絵画」という見方になりましたね、筆の勢い、墨の濃淡、余白の使い方。
機会があれば是非、桃紅の作品(書も抽象画も)を観てください。