『旧約聖書』の「創世の書」を読むと、古代人が人間をどのように見ているかが分かる。「神は天と地をつくられた。それが始りだった」。あらゆるものをつくられた神は、「海の魚と、天の鳥と、野の獣と、地にはうものすべてをつかさどる」役割として、人間(男)をつくられた。神は「人間(男)がひとりきりでいるのはよくない」と「助け手を与えられた」。つまり、男のあばら骨から女をつくられた。「だからこそ、人間(男)は父母を離れて、女とともになり、ふたりは一体となる」。
神は人間を、「生めよ、増えよ、地に満ちて、地を支配せよ」と祝福された。ところが人間は、食べてはならないと命じられた「善悪を知る木の実」を食べた。そのためエデンの園を追放され、自力で生きていかなければならない苦悩の歴史が始った。男と女の間にふたりの子どもが生まれた。兄は地を耕し、弟は羊を飼った。兄は神への供え物として地の実を捧げ、弟は家畜の初子を捧げた。神は弟の供え物を喜び、兄の供え物を喜ばれなかった。
全知全能の神、慈悲深い神がなぜこんな差別をされたのだろう。兄は弟を憎み、殺してしまう。人間の最初の殺人は人間が生まれた次の世代に起こっている。神は兄に「悪魔がおまえの門まで来ている。悪魔はおまえを征服しようとしているが、おまえこそ悪魔に勝たなければなるまい」と呼びかたにもかかわらず、憎しみの方が大きかった。こうして人間はさらに罪深い者となり、苦悩を背負って生きる定めとなった。
人間の歴史は苦悩と後悔に満ちている。18世紀のイギリスの歴史家、ギボンは「歴史とは、そのほとんどが人類の犯罪、愚行、不運の登記簿に他ならない」と述べ、ゲーテも「罪悪が歴史を書き、善は沈黙している」と言う。戦争のような大量殺人が起きるようになったのも、穀物を植え育て蓄えが出来るようになってからだ。備蓄という財産が生まれたことが、争奪し合うことになるのも皮肉なことだ。
人の心に憎しみがある限り、人間は不幸から逃れられない。旧約聖書のカイン(兄)の弟殺しはそれを教えてくれている。それでも、人が人を求める定めなら、愛することと憎むこととは一体なのかも知れない。だから、求めることをやめてしまう人が増えてきているのだろうか。私には無理だ。
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