ジャンヌ・モローさんの死と『ひよっこ』をどう結び付けようとしていたか、もう一度考えてみた。ジャンヌ・モローはフランス映画のヌーベルバーク(新しい波)を代表する女優で、古い価値観に縛られない自由な女性を演じていた。ヌーベルバーク映画は、アメリカ映画の西部劇に代表されるような勧善懲悪やハッピーエンドではない、人の欲望やモヤモヤとした感情をシリアスに描いていた。『鞍馬天狗』や『新選組』を観てきた私には衝撃的だった。
『ひよっこ』はNHKテレビの連続朝ドラマだから、清く正しく頑張るものが多い。もちろん『ひよっこ』もこうしたNHK路線から外れるものではない。衝撃的だったのは昨日のシーンだけだろう。主人公は私とほぼ同じ歳で、昭和40年に高校を卒業して茨城県から東京へ働きに来た女性。彼女の父親は農閑期の時だけ、東京に出稼ぎに来ていたのに前年に失踪してしまったので、父親を捜すために働いている。
昨日はいなくなった父親が有名な女優の家にいることが分かり、母親と引き取りに行くシーンだった。父親は記憶喪失になっていて、どういう理由かは分からないが2年間女優と暮らしている。母親は女優に礼を言った後、「どうして警察に届けてくれなかったのか」となじる。「家族がどれほど心配しているか分からないのか」と責める。黙って聞いていた女優が覚悟したかのように、「放したくなかった」とポツリと告白する。そして父親に向かって、「2年間、楽しかった。もうこれで会うことはないでしょう。さようなら」と言う。
記憶喪失という便利なもので、過去を清算してしまうドラマはあるが、NHKが夫の失踪と女優との生活をどう表現するかと思って見ていた。今朝、母親は主人公の娘に「(父親が)本当に帰りたくなるまであなたのところに居させて」と告げる。夫に何の罪もないのに美しい女優と暮らしていたことが許せないのだろう。女優と田舎の百姓女との差にコンプレックスを感じているようだ。
人は愛することは出来ても許すことは不得意だ。ドラマは虚構だからこそ、人の本性や見せない部分を描き出すことが出来る。そうすることで人について考え、人が苦手な「許す」ことを学んでいくのだろう。絶対など無いのだから、いい加減でいいじゃーないか。