「讀賣新聞」(九州版)11月28日(土曜日)付
〜「三島由紀夫と熊本の(下)」~
◆副題「三島由紀夫と熊本」で、三島由紀夫と熊本との関わりに絞った企画で、一般的な紹介ではなく、深く掘り下げています。
● 熊本という地方から照射される真の三島由紀夫像とも言うべき記事です。
●晩年の三島の行動と思想は〈熊本〉という視点からでないと、見えてこないとつくづく思います。
◆「三島由紀夫と熊本の(下)」に続いて、再度登場しました。
◆三島由紀夫が熊本で語った「日本精神」について指摘しているコメントが載っています。
【内容】一部
三島が語った「日本精神」について、 熊本近代文学研究会の永田满德さん(66)は「神風連に象徴される敬神であり、現人神たる天皇への信奉だった。それらに基づく純粋な行動を何より重要だと考えた」と指摘する。
※このコメントを掻い摘んで説明すると、三島由紀夫が神風連理解の起点とした蓮田善明の神風連に関する「「日本人が信じ、大事にし守り伝へなければならないものだけを、この上なく考へ詰めた」という神風連の(敬神〉の言葉は、三島由紀夫にあっては、神風連の「神意のまにまに」の〈神〉をそのままスライドさせた形で、神格化された「現人神たる天皇」への信奉である。
「三島由紀夫と熊本」拙論の一部
三島由紀夫が神風連の理解で示した「目的のために手段を選ばないのではなくて、手段イコール目的、目的イコール手段」という「日本精神というもののいちばん原質的な、ある意味でいちばんファナティックな純粋な」行動を何より重要であるとし、事の成否とは無関係に〈三島事件〉を起こしたと言わなければならない。
三島由紀夫は〈三島事件〉に類似しているといわれる『奔馬』の取材で訪れているが、「神風連というものは、目的のために手段を選ばないのではなくて、手段イコール目的、目的イコール手段、みんな神意のまにまにだから、あらゆる政治運動における目的、手段のあいだの乖離というのはあり得ない。それは芸術における内容と形式と同じですね。僕は、日本精神というもののいちばん原質的な、ある意味でいちばんファナティックな純粋実験はここだったと思う」と述べて、つまり「目的の成就か否かにかかわらず、あるのは〈死〉のみという行動原理」(松本鶴雄)に深く共感を覚えているのは重要である。
画像:11月21日付の「讀賣新聞」