【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会会長代行 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

「火神」主宰 「俳句大学」学長 「Haïku Column」代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

剽窃・盗用の問題

2020年12月22日 12時18分04秒 | 論文

剽窃・盗用の問題

~松井浩「三島由紀夫と熊本(神風連)」~

                   永田満徳

   初めに

松井浩氏の「三島由紀夫と熊本(神風連) 」「KUMAMOTO」33号(2020・12・15)と銘打った文章には私の文献を踏まえていると思われるところが多々ある。 

松井浩氏の最も重要な論点である「三島由紀夫と神風連と蓮田善明」においてこそ問題があり、紙面の関係で、その一点を例にして指摘しておきたい。

この指摘がひいては「三島由紀夫と熊本」の結び付きに直結し、晩年の三島の思想と行動を探る上で極めて重要であるということを示すことになる。併せて、本稿の執筆動機である「剽窃と盗用」の問題を提起できれば幸いある。

   一 三島由紀夫と熊本

私が〈三島由紀夫と熊本〉との関係を調査研究するきっかけは、一般に軽々しく口にする「三島は熊本を第二のふるさと言った」という言葉である。

もともと、この言葉は『奔馬』の取材に協力した荒木精之氏宛ての手紙に「一族に熊本出身の人間がゐないにも不拘 今度、ひたすら、神風連の遺風を慕つて訪れた熊本の地は、小生の心の故郷になりました。日本及び日本人が、まだ生きてゐる土地として感じられました」というふうに出てくるが、私は額面通りには俄かに信じることができなかった。

熊本は〈心の故郷〉〈日本及び日本人が、まだ生きてゐる土地〉と述べた三島由紀夫の真意を知ることが〈三島由紀夫と熊本〉との関係を掘り起こすことに繋がると踏んでいた。そこで、私が時間と労力、さらにお金を費やして執筆したのが「蓮田善明」であり、「神風連」に関する数々の論考である。

今回問題にしたいと考えている「蓮田善明の『神風連のこころ』」は、蓮田善明関係の多くの資料を渉猟し、「文藝文化」という雑誌を隈なく目を通した結果、ようやく手に入れた資料なのである。そこには、「三島由紀夫と神風連と蓮田善明」の三者を結ぶ重要な証拠があると直感した。この資料は三島由紀夫の「熊本」との接点において極めて重要なので、早速、一九九六(平成八)年に「三島由紀夫と〈熊本〉―「奔馬」をもとにして―」と題して公表したのである。また、この松井浩氏が掲載している雑誌「KUMAMOTO」2号にも発表している。さらに言えば、「永田 満徳blog」でも公表している。

現在では、「三島由紀夫と神風連と蓮田善明」の三者の関係を説明しようとすると、蓮田善明の「神風連のこころ」という文章は避けて通れないほど基礎文献化している。今回の松井浩氏の文章もそうであるが、「三島由紀夫と神風連と蓮田善明」を述べている文章で、「蓮田善明の『神風連のこころ』」に触れている文章に接すると、私の論文の剽窃盗用であると簡単に見破ることができる。

   二 三島由紀夫と神風連と蓮田善明

 「三島由紀夫と熊本」との結び付き示す「蓮田善明の『神風連のこころ』」は今年注目されている「三島由紀夫没後五十年」を考える際に極めて多くの示唆を与えてくれると思われるので、改めて「三島由紀夫と〈熊本〉―「奔馬」をもとにして―」(『熊本の文学 第三』熊本近代文学研究会編、審美社 1996.3)を紹介したい。

丁寧に、しかも用心深く、論証に心砕いた記憶がある。「三島由紀夫の〈熊本は第二にふるさと〉」という一語もそうだが、わずか「三島由紀夫が蓮田善明の『神風連のこころ』を通して神風連を知った」という一文を論証するためにこれほどの文章を要するのである。

 

  東京という中心都市出身者である三島由紀夫がほとんどと言っていいほど知られていない神風連の存在をどうして知ったのかということこそ、むしろ問題にすべきなのかも知れない。

今ここに、昭和一七年十一月一日発行の『文藝文化』(第三巻第十一号) という雑誌を手にしている。その中には蓮田善明の「神風連のこころ」と題する森本忠氏の同題の書評が掲載されている。そこで驚くべきなのは、その文章の直前部分に、平岡公威こと、三島由紀夫の「伊勢物語のこと」と題した文章があることである。このときの『文藝文化』が若い日の三島にとって〈神風連〉の存在に初めて接する機会を与えてくれることになった雑誌であろうことは充分想像される。例えば、蓮田善明が「『電線の下ば通る時や、かう扇ばぱつと頭の上に広げて 。』と話されたのも石原先生ではなかつたらうか」と書いている神風連の故事は、極めて神風連の特色を示しているだけに初めて知るものの記憶に残るだろうし、しかも「私にはこの話がずつと、非常に清らかな、そして絶対動かせない或るものを、今日まで私に指し示すものになつてゐる」と述べているからには、ましてや私淑している蓮田の文章であるならば、若き日の三島の脳裏に印象鮮やかに映ったにちがいない。むろん、その当時から確実に記憶の底に残していたといえないまでも、記憶の片隅に留め置かれていたであろう。そう考えるのは、三島が決起の折にハンド・マイクという文明の利器を使わなかったのは神風連の故事にならったものだという既出の大久保氏の指摘は言うに及ばず、三島が神風連を理解する際の基本線は蓮田の文章から取り入れているように思われるからである。羅列的に示すと、蓮田善明の、

〈神風連は唯だたましひの事だけを純粋に、非常に熱心に思いつゞけたのである。日本人が信じ、大事にし守り伝へなければならないものだけを、この上なく考へ詰めたのである〉 

〈かういふ精純な「攘夷」とは、日本の無比の歴史を受け、守り、伝へる心なのだ〉

 〈神風連は実際は敵らしい敵を与へられてゐないともいえる。にも拘らず彼等は何が敵であるかをはつきり知つてゐた〉

 〈彼等は自ら討つべきものを討つたことに殉じて死ななければならないことも、彼等は知つてゐた〉

という神風連の捉え方は、三島が熊本での神風連取材を前にして林房雄との対談『対話 日本人論』(番町書房・昭41・10) で語った

  「僕はこの熊本敬神党、世間では神風連と言っていますが、(中略)彼らがやろうとしたことはいったいなにかと言えば、結局やせても枯れても、純日本以外のものはなんにもやらないということ」

  「食うものから着物からなにからかにまでいっさい西洋のものはうけつけない。それが失敗したら死ぬだけなんです。失敗するのにきまっているのですがね。僕はある一定数の人間が、そういうことを考えて行動したということに、非常に感動するのです」

 「神風連というものは、目的のために手段を選ばないのではなくて、手段イコール目的、目的イコール手段、みんな神意のまにまにだから、あらゆる政治運動における目的、手段のあいだの乖離というのはあり得ない。それは芸術における内容と形式と同じですね。僕は、日本精神というもののいちばん原質的な、ある意味でいちばんファナティックな純粋実験はここだったと思うのです」

という言葉の端々から理解される神風連の捉え方とは、その純潔日本主義的な観念といい、行動の直截的な把握の仕方といい、或いは特に注目すべき死への潔い覚悟、つまり「目的の成就か否かにかかわらず、あるのは〈死〉のみという行動原理」(松本鶴雄)といい、あまり径庭を感じさせることなく、むしろ蓮田の考えを敷衍させているかのように思われるからである。これはもちろん、昭和の神風連たらんとする『奔馬』の飯沼勲の思考と行動とに通じていることはいうまでもない。

 

と述べている。

   三 先行文献に対する扱い方、紹介の仕方

松井浩氏は、いとも簡単に「三島由紀夫は蓮田からも神風連について学んでいます」と書いて、その直後に、どうして紹介しているか分からないほどに説明もなく、ぶっきらぼうに、蓮田善明の「神風連のこころ」を紹介している。言うまでもなく、私であれば、その証拠に掲げていると察せられるのは私が蓮田善明の「神風連のこころ」を最初に指摘した人間だからである。よって、知らなかったでは済まされず、「蓮田善明の『神風連のこころ』」の部分に触れるならば必ず私の文献を参考文献として取り上げなければならない。

「讀賣新聞」(11月21日付)の「三島由紀夫と熊本上」は、それに対して、先行文献に対する扱い方、紹介の仕方が適切で模範的である。「讀賣新聞」も、三島由紀夫と蓮田善明と神風連の三者の関わりにおいて、蓮田善明の「神風連のこころ」の内容が重要であるとの認識のもとに、記者の地の文としてではなく、私のコメントとして取り上げている。

 

熊本近代文学研究会の永田満徳さん(66)は、三島が神風連を深く知ったのは蓮田を通してだったとみる。永田さんは「文藝文化」42年11月号には、蓮田が神風連について書いていることに注目。蓮田は神風連を「日本人が信じ、大事にし守り伝へなければならないものだけを、この上なく考へ詰めた」と論じており、「三島は蓮田の記事を目にしていたのはほぼ間違いない」というのだ。

 

とはっきりと示し、第一発見者の名誉をきちんと守っている。

   四 松井浩氏の〈断定表現〉

ここで松井浩氏の叙述で最も指摘しなければならないのは、〈断定表現〉である。私は「三島由紀夫と〈熊本〉―「奔馬」をもとにして―」において、「であろうことは充分想像される」とか、「ように思われる」とか、「かのように思われる」とか、言い切ることを避けている。この文献を基にして書いた「三島由紀夫と〈熊本〉」「KUMAMOTO」2号(2013・3・15)では結論部分に至っても、「蓮田と神風連とが結び付き、想起されてきたと考えるのは自然であろう」と慎重に言葉を選び、締め括っていることがお分かりいただけただろうか。「三島由紀夫が蓮田善明を通して神風連を知った」ということは私にすれば確信できるし、自信を持っている。しかし、こと公にするとなると蓋然性が高いというだけである。松井浩氏のように、三島由紀夫と神風連と『城下の人』においても、あっさりと「三島と神風連との初めての出会いは『城下の人』にあります」と書いているが、私の調査研究によれば、「にあります」「学んでいます」と両方とも断定的に言うことはできない。最も危惧するのは「断定表現」が夏目漱石の「熊本は森の都と言った」という言葉のように、世間に流布することである。断定できることと、できないことを峻別するのが実際に調査研究する者の倫理であり、礼儀である。勝手に断定する文章ははからずも自分で調査研究せずに、ただ他人の文章を切り貼りしていることを暗に暴露しているようなものである。

  五 私の文献の剽窃、或いは盗用

この機会に述べておきたいのは、私の文献の剽窃、或いは盗用はネット上でも数多く見られ、苦々しい思いをしている。その代表は西法太郎氏の『三島由紀夫は一〇代をどう生きたか あの結末をもたらしたものへ』(文学通信、2018平成30年11月)である。「三島由紀夫と〈熊本〉―「奔馬」をもとにして―」という私の初出の論文の剽窃盗用を疑う部分が数箇所に渡ってあり、唖然とするばかりである。

三島と神風連の結縁には蓮田善明も関わっていた。蓮田は「神風連のこころ」と題した一文を昭和一七(一九四二)年、清水文雄らとの同人誌『文藝文化』に寄せた。これは森本忠著『神風連のこころ』を評したものだった。一七歳の三島は蓮田の「神風連のこころ」を読み、この文章からも‘神風連"が何ものかを心の裡に刻んでいたのだろう。

この部分は私の初出の論文で述べている極めて重要な蓮田善明の「神風連のこころ」を介した三島由紀夫と神風連の理解という箇所の剽窃盗用ではないか。

 さらに、「讀賣新聞」では私のコメントとしてきっちりとり挙げられているところの、

(永田さんは「神風連のこころ」を踏まえて、)蓮田は神風連を『日本人が信じ、大事にし守り伝へなければならないものだけを、この上なく考へ詰めた』と論じており、『三島は蓮田の記事を目にしていたのはほぼ間違いない』というのだ。

の部分は、

蓮田は批評 「神風連のこころ」で、「神風連の人びとは非常にふしぎな思想をもっていたのである」、それは、「日本人が信じ、大事にし守り伝えなければならないものだけを、この上なく考え詰めたのである」と述べている。

という西法太郎氏の記述は何の断りもないので、盗用していると言わざるを得ない。

さらに、

蓮田は、「神風連はただ魂だけを純粋に、非常に熱心に思いつづけた」と説いた。三島は後年、この蓮田の書きつけに響いた発言をしている。熊本を訪れるまえに行った林房雄との対談で、「神風連はひとつの芸術理念」であり、「日本精神というもののいちばん原質的な、ある意味でいちばんファナティックな純粋実験はここだと思う」と熱く語っている。

に至っては、

(三島が林房雄との対談で語った)神風連というものは、目的のために手段を選ばないのではなくて、手段イコール目的、目的イコール手段、みんな神意のまにまにだから、あらゆる政治運動における目的、手段のあいだの乖離というのはあり得ない。それは芸術における内容と形式と同じですね。僕は、日本精神というもののいちばん原質的な、ある意味でいちばんファナティックな純粋実験はここだったと思うのです

という言葉の端々から理解される神風連の捉え方とは、その純潔日本主義的な観念といい、行動の直截的な把握の仕方といい、或いは特に注目すべき死への潔い覚悟、つまり「目的の成就か否かにかかわらず、あるのは〈死〉のみという行動原理」(松本鶴雄)といい、あまり径庭を感じさせることなく、むしろ蓮田の考えを敷衍させているかのように思われるからである。

という、今から二五年前の、一九九六(平成八)年初出の拙論「三島由紀夫と〈熊本〉―「奔馬」をもとにして―」をお読みの方はお分かりのように、三島由紀夫の神風連理解の根本的な部分の剽窃盗用が疑われるので、もし剽窃盗用であれば許すべからざる行為である。

  終わりに 剽窃盗用の問題は私だけの問題ではない

西法太郎氏の本は、松井浩氏が参考文献にしているように、先行文献に当たらず、十分に下調べもせしない人に孫引きされて、西法太郎氏の説として流通することになるので放っておけない問題である。

三島由紀夫と神風連と蓮田善明の三者の解明が剽窃、盗用されるほどの発見であったのだと自らを納得させればそれまでであるが、剽窃盗用の問題は私だけの問題ではないので看過することはできない。

2020年12月22日

画像:「三島由紀夫と〈熊本〉―「奔馬」をもとにして―」

『熊本の文学 第三』熊本近代文学研究会編、審美社 1996.3)

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