昨日は、朝の山田かずお参院候補らとの街頭宣伝の後は、午前、午後、夕方、夜、と共産党や団体の会議や打ち合わせが続き、最後は事務作業・・・・・でした。
ガンバリマス。
三國連太郎さんが亡くなられた。1923年群馬県生まれ。51年に映画「善魔」でデビュー。「飢餓海峡」「にっぽん泥棒物語」「戦争と人間」「神々の深き欲望」「息子」「釣りバカ日誌」などに多数出演。原作・脚本・監督作として「親鸞 白い道」があります。
今朝の朝刊の1面コラムでも、赤旗をはじめ、読売、日経などがとりあげていました。
独立プロの今井正、山本薩夫らと出会って大きく変わった、と。お二人とも日本共産党員の監督さんでした。日本共産党員との出会いが三國さんを名優にした、と書けば過ぎるでしょうが。
私は個人的には同姓同名の「さとうまさお」つながりで親近感もありましたし、その生き方にも共感していました。
ご冥福をお祈りします。
■三國さんが赤旗創刊80年のインタビューに登場し、赤旗へ期待を寄せていました。
自民や維新などが平和憲法改憲を呼号している時、あらためてかみしめたいと思います。
聞き手は福井県今立出身の板倉記者です。
「赤旗」にしても日本共産党にしても、人間主義という出発点が、本来の成り立ちだと思うんですね。人間本位の暮らし向きを主体にして成り立っている政治集団でしょうから、なんで抵抗がある人がいるのかなと思いますね。
やっぱり保守勢力から嫌な印象が根強く宣伝されたからでしょうか。しかし、戦前は共産党を非合法にする裏側で戦争に突っ込んでいった。そういうことがいえると思います。
見えない圧力
僕たちの若いときはそんな時代でした。旧制中学に入ったら制服がカーキ色になって、ゲートルを巻いて登校することが規則になりました。最初はバラバラだった登校が、だんだん整然と乱れなく、歩調をとって歩くようになるわけです。
僕はその体質が嫌で、中学に行くのが苦痛でした。4、5年の生徒はストライキをやっていました。見えない大きな圧力を感じて反抗したんじゃないかと思います。その辺からサーベルをさした配属将校が軍事教練をするようになったんです。たばこを吸って停学になった時は、将校の家で毎日「教育勅語」を書かされました。従順になれなかった僕は中学を2年で退学し、16歳で伊豆の田舎を飛び出したんです。
僕みたいなのを不忠の民というんでしょうね。徴兵忌避で捕まって静岡の34連隊に入りました。中国に出征しても、なぜ自分が前線にいるのか理由づけられない。中学の同級だった軍医の助言で仮病を使い、陸軍病院に入院しました。それで命が助かったわけです。一緒に原隊を出発した仲間はその後にガダルカナルに渡り、ほとんど帰ってきませんでした。
2年半、中国にいて終戦を迎えたんですが、戦争が終わったと思ったら体中がカッカッしてきましてね、これで生まれ故郷に帰れると思いました。韓国から連れてこられた「慰安婦」の人たちも、どよめいていました。従軍「慰安婦」はいなかったという人もいますが、実体を見たのは僕の錯覚だったのかなと現実に確信が持てませんね。今となっては何が真実か見えなくされてるような気がしますね。
僕たちの仲間は何十万という犠牲者を出しました。映画「北辰斜にさすところ」ではその思いをせりふとして入れてもらいました。海の向こうには帰ってこれない者がいっぱいいるんだと。生き残ったわれわれはその犠牲に報いることができているのか、不特定多数の犠牲者に訴えられる唯一の場だと思ったんですね。
孫と軍靴の音
僕は音には敏感でしてね。何か最近の情勢を見ていますと軍靴の音が高く迫ってくるような気がしてならんのです。国会中継でも自己権益だけが先行しているために詭弁(きべん)をろうしているように思えてなりません。政治家は国民一人ひとりの生命を預かっているわけですから、発言の一句一句には重い責任があると思うのです。
近ごろは眠れないときにたまに孫の写真を見たりしますね。小学校の5年生なんですが、この子の顔に軍靴の音が重なることがたびたびあります。何とかこの子たちには、同じ思いをさせたくないと思っています。
平和をゆるがせにする権利は誰にもあるわけはないのです。今は戦前のように思想の制限はないでしょ。たくさんの犠牲を払って自由を獲得したわけですから、「赤旗」はその遺志を継いで、不特定多数を納得させる難しくない言葉でおおいに本当の報道を伝えて、平和の権利を守る手助けを続けていただきたいと思います。
聞き手 板倉三枝記者。
ガンバリマス。
三國連太郎さんが亡くなられた。1923年群馬県生まれ。51年に映画「善魔」でデビュー。「飢餓海峡」「にっぽん泥棒物語」「戦争と人間」「神々の深き欲望」「息子」「釣りバカ日誌」などに多数出演。原作・脚本・監督作として「親鸞 白い道」があります。
今朝の朝刊の1面コラムでも、赤旗をはじめ、読売、日経などがとりあげていました。
独立プロの今井正、山本薩夫らと出会って大きく変わった、と。お二人とも日本共産党員の監督さんでした。日本共産党員との出会いが三國さんを名優にした、と書けば過ぎるでしょうが。
私は個人的には同姓同名の「さとうまさお」つながりで親近感もありましたし、その生き方にも共感していました。
ご冥福をお祈りします。
■三國さんが赤旗創刊80年のインタビューに登場し、赤旗へ期待を寄せていました。
自民や維新などが平和憲法改憲を呼号している時、あらためてかみしめたいと思います。
聞き手は福井県今立出身の板倉記者です。
「赤旗」にしても日本共産党にしても、人間主義という出発点が、本来の成り立ちだと思うんですね。人間本位の暮らし向きを主体にして成り立っている政治集団でしょうから、なんで抵抗がある人がいるのかなと思いますね。
やっぱり保守勢力から嫌な印象が根強く宣伝されたからでしょうか。しかし、戦前は共産党を非合法にする裏側で戦争に突っ込んでいった。そういうことがいえると思います。
見えない圧力
僕たちの若いときはそんな時代でした。旧制中学に入ったら制服がカーキ色になって、ゲートルを巻いて登校することが規則になりました。最初はバラバラだった登校が、だんだん整然と乱れなく、歩調をとって歩くようになるわけです。
僕はその体質が嫌で、中学に行くのが苦痛でした。4、5年の生徒はストライキをやっていました。見えない大きな圧力を感じて反抗したんじゃないかと思います。その辺からサーベルをさした配属将校が軍事教練をするようになったんです。たばこを吸って停学になった時は、将校の家で毎日「教育勅語」を書かされました。従順になれなかった僕は中学を2年で退学し、16歳で伊豆の田舎を飛び出したんです。
僕みたいなのを不忠の民というんでしょうね。徴兵忌避で捕まって静岡の34連隊に入りました。中国に出征しても、なぜ自分が前線にいるのか理由づけられない。中学の同級だった軍医の助言で仮病を使い、陸軍病院に入院しました。それで命が助かったわけです。一緒に原隊を出発した仲間はその後にガダルカナルに渡り、ほとんど帰ってきませんでした。
2年半、中国にいて終戦を迎えたんですが、戦争が終わったと思ったら体中がカッカッしてきましてね、これで生まれ故郷に帰れると思いました。韓国から連れてこられた「慰安婦」の人たちも、どよめいていました。従軍「慰安婦」はいなかったという人もいますが、実体を見たのは僕の錯覚だったのかなと現実に確信が持てませんね。今となっては何が真実か見えなくされてるような気がしますね。
僕たちの仲間は何十万という犠牲者を出しました。映画「北辰斜にさすところ」ではその思いをせりふとして入れてもらいました。海の向こうには帰ってこれない者がいっぱいいるんだと。生き残ったわれわれはその犠牲に報いることができているのか、不特定多数の犠牲者に訴えられる唯一の場だと思ったんですね。
孫と軍靴の音
僕は音には敏感でしてね。何か最近の情勢を見ていますと軍靴の音が高く迫ってくるような気がしてならんのです。国会中継でも自己権益だけが先行しているために詭弁(きべん)をろうしているように思えてなりません。政治家は国民一人ひとりの生命を預かっているわけですから、発言の一句一句には重い責任があると思うのです。
近ごろは眠れないときにたまに孫の写真を見たりしますね。小学校の5年生なんですが、この子の顔に軍靴の音が重なることがたびたびあります。何とかこの子たちには、同じ思いをさせたくないと思っています。
平和をゆるがせにする権利は誰にもあるわけはないのです。今は戦前のように思想の制限はないでしょ。たくさんの犠牲を払って自由を獲得したわけですから、「赤旗」はその遺志を継いで、不特定多数を納得させる難しくない言葉でおおいに本当の報道を伝えて、平和の権利を守る手助けを続けていただきたいと思います。
聞き手 板倉三枝記者。