世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

いまだ一簣を

2008-01-21 10:36:12 | てんこの論語

譬えば山を為るがごとし。いまだ一簣を為さざるも、止むはわが止むなり。譬えば地を平らかにするがごとし。一簣を覆すといえども、進むはわが往くなり。(子罕)

(たとえばやまをつくるがごとし。いまだいっきをなさざるも、やむはわがやむなり。たとえばちをたいらかにするがごとし。いっきをくつがえすといえども、すすむはわがゆくなり。)

例えばそれは、山を作るようなものだ。もっこ一杯の土も運ばなかったのも、やらなかったのは自分がやらなかったのだ。例えばそれは、平地を作るようなものだ。たった一杯のもっこを運んだのも、それは自分がやったのだ。

 *

今日は、昨日と同じく、絵を紹介しようと思ったのですが、今朝方写真に撮ったその絵を見て、あまりに苦しそうな顔だったので、やめてしまいました。また、次の機会に紹介したいと思います。気のせいか、絵を紹介したときは、閲覧の回数が多いような気がするので♪ 

さて。孔子のことばがすきなのは、それが実際、とてもわかりやすい、やりやすい、というところにあります。当たり前のことを、当たり前に書いてある。本当に、ただそれだけ、ということを、すんなりと書いてあるのが、とても心地よい。

この世に苦しみを感じる人は、厭世的な宗教や思想を採用して、やたらと大きなことを考えたがり、この世を越えたがるのですが、わたしはそれは、害はあっても、あまりいいことはないような気がするのです。

人間は人間で、すばらしいことがたくさんできるのですから、それをやったほうがいいのではないかな。それは、人間を越えた神様や天使みたいになりたい、と願う人の気持ちはわかりますが、阿呆のように大きすぎることを考えても、どうにもならない。人間には、地球を創ったり月を創ったりすることはできません。空よりも大きな鳥や、海よりも大きな魚を、想像の中でもてあそぶことは面白いですが、それはそれで、想像力を遊ぶ、というだけで、やめておいた方がいいと思うんですよ。

実際にやろうとすれば、むなしさが広がるだけです。できないことをやろうとすれば、自分にはなにもできない、という感じになり、生きることは苦しいだけになってしまう。できることはいっぱいあるのに、それをやろうともしなくなる。みんなつまらない、くだらないことになってしまう。

自分に備わっている二本の手、二本の足、想像力と知恵の詰まった頭、悲しみも喜びもすべて感じる心、なにもかもを自分で決める自分。それら、実在の自分を、今使ってできること。目の前の一山の土を、一籠はこぶ。それだけで、できることがある。そのほうがずっとすばらしいし、楽しい。

この世界には、面白いことがいっぱいあるんですよ。楽しいことがいっぱいあるんですよ。あらゆる美しいものが、あふれるほど存在している。掘っても掘っても掘りつくせない宝物が一杯ある。人間には、それがすべてわかる。それをなぜ、やろうとしないのか。もっこひとかつぎ、するだけで、この楽しい「自分」をやることの幸福が、わかる。

阿呆みたいに難しいことを考えてもしょうがない。とにかく、今、目の前にある一山の土を見てごらん。できることがある。それをやってごらん。おもしろいったらないんだよ。できるんだよ、それ。おまえは、やれるんだよ。

それをやるのも、やらないのも、すべては、「自分」なのだ。

自分、こそが、すべてなのだ。

君はそんなにも、すばらしいものなんだよ。

もっこ一杯の土、運んでみなさい。できるんだよ。見上げるような高い山も、広やかな田園も、すべては、そこから始まるんだよ。




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自閉の籠

2008-01-20 09:25:10 | 画集・ウェヌスたちよ

昨日に引き続きまして、「荒野…」シリーズの習作です。習作は失敗を含めて、8枚ほど描きました。これはその中で、いちばん出来がいいものです。

天使の顔を描こうとして、苦心したあとが見えますが、その苦しさの故か、みな本当に苦しそうな顔をしている。もちろん、そのときのわたしの苦しさもありますが。みんな紹介すると、とんでもなく苦しいので、一部だけにしますね。明日は、2番目に苦しくないものにします。

ほんとは全部紹介してみたい気もするな。もっとも苦しい表情をした天使が、そのときのわたしの気持ちそのものって感じなんで。

どうしましょう。

まあ、そのときのわたしの気分次第ってことですか。


昨夜は、月に大きな暈(かさ)がかかりました。取り込み忘れた洗濯物をとりに、ベランダに出ましたら、大きな月の輪に、オリオンの肩がひっかかっていた。輪の中には、アルデバランと、もうひとつ、目立つ星が、池の中の小さな魚のように泳いでいた。

寒いので、すぐに家にひっこんでしまったけれど。

病気になってから、ゆっくりと夜空を見上げるのが少なくなりましたね。それよりは、寝床の上で、猫のようにじっとしていたい。

春がきたら、きっとよくなっているでしょう。



*

*** 追記(2008,02,10)

後の四枚にタイトルをつけましたので、この習作にもタイトルをつけました。

「自閉の籠」です。

よって、タイトルも、「天使(習作)・2」から「自閉の籠」に変えました。

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天使(習作)

2008-01-19 10:25:17 | 画集・ウェヌスたちよ

昨日、財布をなくしまして、部屋を掃除しつつ家捜ししていましたら、こんなのが出てきました。「荒野に降りた天使」シリーズに先んじて描いた習作の一つです。

「荒野…」は、正直とても苦労のあった作品で、このほかにも何枚か習作があるのですが、絵の中の天使はみなすごく苦しそうな顔をしています。これがまだいちばん、見ていて苦しくない作品です。久しぶりに見たら、とてもかわいく見えたので、紹介してみました。

ほかの習作は、もうちょっと時が経たないと、紹介できないかなあ。それとも思い切って、一番ましなやつを紹介してみましょうか。

ああそれにしても。お財布がまだ出てきません。あんなビンボーな財布、盗むやつはいないと思うんだけど。今晩の御飯はどうしたらいいの?

今日も家捜しです。






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なんじは画れり

2008-01-18 10:38:20 | てんこの論語

冉求曰く、「子の道を説ばざるにあらず、力足らざるなり」。子曰く、「力足らざる者は、中道にて廃す。今なんじは画れり」。

(ぜんきゅういわく、しのみちをよろこばざるにあらず、ちからたらざるなり。しいわく、ちからたらざるものは、ちゅうどうにてはいす。いまなんじはかぎれり。)

冉求がいった。「先生の教えが、おもしろくないわけではないんです。ただ、わたしはまだ、力が足りないんです。」先生はおっしゃった。「力の足らぬ者は、やっている途中で倒れる。今おまえは、自分はバカだからだめだと、いったのだ。」


勉強の途中で、やるのがいやになってしまうとき、よく人が言い訳に使うことばの一つが、これですね。「わたしはまだ、力が足らないから」。たぶん、冉求もそうだったんでしょう。孔子のくそまじめでまっすぐな教えが、ちょっといやになったのです。若い頃は、ばかみたいなこともしたいと、思うものですから。先生のように立派な人になりたいと思う反面、いやになってきて、おれはバカだからだめだと、全部放り投げてしまいたくなる。

実質、あまりに硬くてくそまじめだと、人間ときどき、苦しくなってきます。自分が本当に辛くなってくる。自分はときどき、いやなこともしてしまうから。ばかなこともしてしまうから。あまりにまっすぐに、美しく生きることは、人間にとって、とても難しい。だから反発もしたくなる。

どうせ俺にはできませんから。先生みたいになるのなんて、無理ですから。自分は、こんな自分が、ほんとうにいやになってくるんです。どうやっても、できない。先生みたいに、できないんですよ。

冉求に限らず、孔子の周りにいる弟子たちの心の中に、こんな苦しみは常にうごめいていたでしょう。自分が小さいなんて、思いたくないから、常になんとかいいことをして、精一杯、いい自分でいようとする。でも心の中にある、この情けないおれの愚痴っぽい心を、どうすればいいだろう。

酒でも飲むしかないのか。

弱い心は、辛さ、苦しさ、悲哀などの、薄暗い感情に酔いやすい。酒のような麻痺感覚の中に、自分を沈め、冷めたニヒリズムの中に逃げようとする。どうせみんなバカだから、おれたちはみんな、くだらんものだから。もういやになってくるよ。

そうなってしまえば、人はもう学ぼうとせず、愚かなことばかりするようになります。人間なんてどうせ阿呆なものだからと、バカなことばかりやって、自分をなんとかしようとする。バカの王様になれば、なんとかなるだろうと、いいかげんなことばかりやるようになる。そしてこの世に苦しみがあふれ、いやなことばかりが起こるようになる。

それを防ぐためには、ただ学び、励むしかないのです。正しい答えは、常にもっとも簡単で当たり前なところにある。勉強しなさい。力が足りないんではない、やらないだけだ。おまえは自分をバカだといって、勉強をやめたいって言ってるんだよ。

自分に限らず、すべての存在は常に未熟で未完成なものです。絶対に完成することはない。孔子も、生涯学んでいる。彼の一番誇りとすることは、えらい先生であることでも、立派な政治家であったことでもなく、ほんとうに自分は勉強好きだということでした。

君はバカなんではない。バカだと決め付けて、やらないだけだ。やらないから、成長しない。そして自分がどんどんバカになるような気がしてきて、一層苦しくなる。バカなんだよおれはって、一層激しくバカをやるようになる。苦しいぞ、それは。常に、いやらしいことをする阿呆が、自分といっしょにいるんだ。

勉強は、難しいのではない。やれるところからやればいいだけだ。力がないわけではない。あるものでやればいいだけだ。やってみなさい。とにかく、やってみなさい。

それだけで、おまえのバカは、すっかり直るよ。

自分をバカだと決め付けるな。とにかく励みなさい。孔子の正しすぎることばは、人間にとって常に苦しい。だけど、ほんとうはそれ以外にないことを、みんな知っている。

勉強は、ほんとうに、したほうがいいですよ。



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魔法の庭

2008-01-17 11:07:52 | 花や木

おとといくらいに、幼稚園のお庭で撮ってきたコスモスです。見るからに心配そう。こんなふうに写真を見て、今の自分の調子がわかる感じですね。やっぱり本調子じゃないんだなあ。

暗がりに翳った、うすべにが、見えない網にしばられて苦しがっているかのようで、それが返って痛々しく、美しく見える。人間の心の奥に潜んだ、痛い記憶のつぼをくすぐるような。

たくさん花の写真を撮っていますが、こんな風に花がずっと語りかけてくれるような写真が撮れるようになったのは、調子を崩してからです。苦しいことがあってから。いろんなことを、一生懸命耐えていこうとしていたわたしを、なんとかしてくれようとしているから。だから、わたしが撮る花は、みんな、「見ていられない、たまらない」という顔をして写ります。

友達が少ないわたしは、昔から植物に話しかけてきました。木や花しか、ほんとうのことを言える友達がいなかった。人間はみな、うっとうしい嘘の鎖に縛られて、本当のことを何もいえなくなっているから。だからとても苦しい。

でもそれが幸いして、いろいろ面白いこともわかってきました。木や花がどんなことを感じて、どんなことをやっているかが、わかってきた。

今朝は、久しぶりに、庭の植物にたっぷりと水をやりました。わたしが病気でできなくなってから、ほとんど天水と植物の忍耐に頼っていたのですが、さすがに耐え切れなくなって、もう庭が洪水になるほどにやりました。

庭の世話をやりはじめて、わかってきたことのひとつは、庭木は人間が思っているよりもずっと、たくさん水をほしがるということ。それも、浴びるほどほしがるということ。それはなぜかというと、人間の家の庭にいるということが、植物にとっては強いストレスだからなのです。それは、人間がいやなのではなくて、人間が、苦しすぎるから。あまりにも、苦しんでいるから。

苦しんでいる人間を見ると、花や木は何とかしてあげたい、という気持ちがどうしても動いてしまう。そしてとても苦しいことになる。愛はつらい。やらなくてもいいことを、どうしてもやってしまう。

庭の植物が水をたくさんほしがるのは、渇いているということもありますが、それよりも何よりも、人間の愛がほしいからなのです。あまりに、痛いからなのです。どんなにがんばっても、人間には決してわからない。そういうことを、花や木はやってくれているのです。

人間は、わからないといけない。どんなにたくさんのものが、愛だけで、人間が生きることを助けてくれようとしているか。

写真の花を見て、その気持ちがなんとなくわかるという人は、きっとわたしだけではないでしょう。もうたくさんの人が、ほんとはわかるようになってきているはずです。そんな人は一度、植物と話をしながら、庭の世話をしてみてください。ほんとうに、たくさんのことがわかりますから。美しい心で、どんなことをやってくれているかが、しみじみとわかってきますから。

裏庭のアロエが水をたくさんほしがるので、じょうろに何杯もやっていました。それでもほしがるので、あとでやるからねと、ほかの庭木に水をやっていましたら、何度か水道と庭を往復するうちに、もういいよ、いらないよ、といってくれるようになった。本当はほしいのだろうに、わたしが何べんも何べんも庭木に水をやっているのを見ているうちに、いやになってきたからです。

そんなにまでしてもらって、ほしくないよ、というのです。

ほんとうですよ。

花や木の心に心を開きながら、水をやってみてください。きっとわかるようになりますから。どんなに彼らがやさしいか。本当に人間を心配しているか。

みんな、とてもかわいいのです。


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あともう少し

2008-01-16 09:53:05 | 珈琲の海

久しぶりに詩と歌を詠んでみました。かなり回復傾向にあるようです。まだいろいろ苦しいことはありますが、トンネルの出口の光が見えてきた、というところでしょうか。ひところほど、苦しすぎることはない。

もっとも辛いときは、呼吸するごとに痛い、という感じでしたが。

写真も撮っています。デジカメ君もがんばってくれている。この写真は去年の4月頃のものですが、とても明るくてきれい。今はこんなに明るくは撮れなくて、物悲しげに暗い写真になってしまいますが、それなりにかわいい写真になっています。おもしろいので、しばらく使ってみましょう。まだ新しいのは買えそうにないし。

絵はまだ描く気になれないのですが、いろいろな発想は頭の中を流れています。描き始めたら、以前とは少し違う感じのものになりそうです。おもしろいことに挑戦もしてみたい。

今朝方、末っ子がおなかが痛い、と甘えながらおきてきました。少しどこかの虫がずれているだけだと思うのですが、あまり毛糸でキーホルダーにしようと編んだチビ手袋をあげてなだめ、幼稚園におくりました。

甘える子供の髪をなでたり、胸に抱きしめたりしているうちに、知らないうちに大きくなっている子供の魂の大きさを感じました。母親が病気で何もできないでいるうちに、子供たちはその心と頭と体で、苦しいところをなんとか、なんとかしながら、精一杯やっていた。泣いてるところなんか見たことなかったな。みんなでいっしょに、がんばってた。

苦しさを紛らすために編んでいたセーターやベストを、子供たちは毎日そればかり着てくれるのです。それ以外は着てくれなくて、もう汚れて、すりきれて、よれよれになってるのに、今日も着ていきました。

苦しいときを耐えていくとき、何より感じるのは、人の魂の厚さ、大きさです。こんなことさえ、君はがんばるのか。やれるのか。

おととい、久しぶりに末っ子と一緒のふとんで寝たとき、隣でちょっと居心地の悪そうな子供の吐息を感じながら眠りました。もう、お母さんと一緒に寝なくてもいいんだな。大きくなったんだな。

ほんとうにみんな、がんばってくれた。

あともう少し。わたしもがんばる。




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星を飼ふ

2008-01-15 09:49:07 | 歌集・恋のゆくへ

 ゆふづつのみづにおつるをひろひこよ 
                余は若竹の玉籠を編む
 
 墨のごとき泥にこもりしその星を
                ひろひし君の白きひたひよ

 われの目の高さの肩によりそはむ
                その若き背の花のごときなれば

 ふれむとしてふれぬその手のかたへにて
                星飼ふ籠を窓につるしき

 


     ☆☆☆

 


 うしなひし幻の星放たれよ天伝ふ日の入る水の果て

 ありありてあるこの我のうるはしきことより高き星はなきかな

 あだし世をともにせし実のほろ苦きを今在る君と語りたきと思ふ



     


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さらば

2008-01-14 09:45:11 | 詩集・貝の琴

あをくさをむすびき
きみのかろき足を
折らむがために

にくしみをつちにうめ
どろだまにしてきよめ
赤き嘘語るこの喉につめよ

あをざめた風の
しのびこむ耳につめよ
地にふせし花の
われを見る瞳をとぢよ

あをくさをむすび
たれの足を折らむ
われのなせしわざの
あまたかず
苦き虫となりて
身より生ぜり

あをくさをむすび
その足を折らむ
われに足をあたえよ
きみの足をあたえよ

野のかげにこほりつき
とはのかたりを土にこめ
きみを欠きしこの胸の
洞につめよ
そしてわれは
あをくさをむすばむ
けふもむすばむ
二度と訪はぬきみの夢を
つひにくじかむがために

あをくさを



さらば







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まだやっている

2008-01-13 09:54:43 | 有為のしらべ

去年の春の、ハナビシソウです。疲れているときには、目にもあざやかな色の花が、まるで甘い薬のようにしみとおる。やさしい花ですね。燃えているようにあざやかな色なのに、どこか清らかな感じがする。なにかをしてあげようとしている。そんな心が、見えるからでしょう。

花が美しいのは、花が、その花自身であるからです。だから花は、見るものに、常に何かをしてあげようとする。自分が自分であればこそ、愛が当然のことになるからです。

けれどもこの自分を見失っている人は、どんなに美しく着飾ろうとも、嘘で鎧をつくっても、どうしても美しくは見えない。それは、愛ではないからです。

自分がいやだと思い、自分を見失っている人は、自分以外の人がみな自分よりよく見えます。そして、自分があまりにつまらないものに思え、その苦しさのあまり、自分以外のあらゆるものを侮辱し始める。「おまえなんかいやだ」というのです。なぜそれをいうか。「いやだ」といえば、その一瞬だけ、目の前にいる人間より優位に立てるからです。

「おまえがばかだから、いやなんだ。だからおれは、おまえよりえらいんだ」

自分が自分であることを、苦しいと感じている人が、遠い昔からやっていることは、ただこれだけのことなのです。あらゆる権力争い、戦争、だましあい、きずつけあい、殺し合い、奪い合い、すべてはみな、ただこれだけなのです。

「おまえよりわたしがえらいのだ。」

なぜなら、そうでなければ、自分には何もないと思っているからです。自分がないからです。だれよりも自分が偉くなければ、耐えられないほど、それはすさまじい痛みなのです。自分が、ほかのだれよりも醜く、苦しく、バカみたいなものに思えるからです。

だから人は、あらゆる嘘と、巧妙な技を使って、ほんものそっくりな偽者の自分を、いかにもすばらしい感じで作り上げる。まるで巧みな芸術家の技巧のような、すばらしい技で、あまりにも、みっともないものを作る。それはそれは、絶望的に苦しい、愚か者の金字塔なのです。針でつつけば、一瞬にしてなくなってしまう。まぼろしにも満たないほどの、ありもしないため息の影。それを、愚か者は、まだ作り続けようとしている。

自分が苦しいから。何もないから。嘘でなにもかもを作ろうとする。そしてあらゆるものを侮辱し、つぶし、殺し続ける。自分よりすぐれているものは存在してはならないからです。ひとりでもそれがいれば、自分のうそがばれてしまう。あふれるほどに、まぶしい、すばらしいものになれなければ、あまりにも、ひどいことをしすぎてきたことの、いいわけが、できない。なにもかも、自分が正しいにしなければ、痛すぎることをしてきてしまったことが、いやなことになりきってしまう。自分がいやなものになりきってしまう。それはいやだ。

だから愚か者は、愚かなことをし続ける。すべては阿呆なんだ。だから何をしてもいいんだ。軽々ということの真の意味を、理解もできない幼い段階で、人はすべてを否定することだけで、すべてを凌駕しようとする。世界で自分が一番えらいんだ。そういうことにしてしまう。それでなければ、あまりにも自分がバカだから。

これは恐ろしい病です。自分がない人は、自分から何もしようとしません。自分でやっているようで、それはすべて誰かにやらされていることなのです。自分で判断しようとしない。責任をとろうとしない。だからどんなことになっても、それまでと同じことをしようとし続ける。自分がやってきたことの結果が、現実となって返ってきても、まだ同じことをしようとする。それをやれば、結果的に一層悪くなるということがわかるのに、やる。自分がある人なら、ここで状況を見て正しい判断ができる。自分できめて、自分が動くことができる。けれども愚か者はそれができない。なぜ? いやだから、です。何もかも、「いやだから」。

彼らは、痛ましいほどに、苦しいのです。やってきたことのすべてが返ってきたとき、そこにいやらしい自分がありありと見えすぎるからです。いやなんだと、否定し続けてきた自分が、あまりにも厳しい現実となって、返ってきたからです。

あれがおれなんだって? そんなことを認めるはずがないじゃないか。おれはえらいんだ。えらいものでなければならないんだ。でもたまらない。すべてはうそだからだ。うそだってわかってるんだ。そんなやつはさいていだ。でもおれは、ずうっとやってるよ。ぜえんぶ、うそなんだよ。

いやだ。

なにがいやなんだ。いたい。いたい。いたい。

痛みと辛さの麻痺感覚によいながら、愚か者は本当の自分に、自ら鞭打ち続ける。それを、ずうっと、つづけている。ながいことながいこと。噛み付いているものが、自分の尻尾だと気づくまで、その痛みに苦しみ続ける。

これが無間地獄です。

ばかなことをやりつづけて、すべてないことにして、またばかをやりつづけて、ほかのやつらをみんな阿呆にして、おれだけがいいんだにしたら、みんな阿呆になった。なにもかも、なくなった。それでもおれは、まだやってるよ。

もうなにもない。

愚か者は、まだやっている。




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金剛不壊

2008-01-12 09:56:53 | 有為のしらべ

これは、去年の五月頃に撮った、ヒルザキツキミソウです。この頃に撮った写真は、みんなこんなふうに、明るい。この頃はまだ、病気がこんなに長引くとは夢にも思っていなかったのです。がんばっていれば、すぐにでも直ると思っていた。だから、どんなことがあっても、負けないさって感じで、楽しくがんばろうとしていました。絵もたくさん描いていた。

でも、しばらくすると、これは甘くないぞ、という事態が、次々とふりかかってきた。苦しすぎる現実をつきつけられた。これはあんまりだ、ということもあった。必死で、なんとかしてきました。苦しすぎることを、苦しすぎることにしないために、最低限、魂が息をできる場所を確保するために、今思えば、むごいという選択もしなければならなかった。そしてそれらを、すべて一人でやらねばならなかった。

できてきました。できたのだということが、まるで現実とは思えないほど、いろいろなことをやってきた。これらはすべて、まるでわたしではないものがやったことのようだ。

いったい、わたしとは何なのだろう。こんなことさえ、できるものなのか。

絶対の神は、存在しませんが、不壊の神なら、存在するといっていいでしょう。決して壊れぬ神。決して滅びぬ神。それは、自分というものです。これだけは絶対に壊れない。この真実を信じて、すべてをやりぬいていけば、人は、自分はすごいことができる、という真実をつかむのです。

こんなこと、信じられない。できたのか。これがわたしのやったことか。

わたしとは、こんなにすごいのか。

自分を信じれば、あらゆることができる。とんでもない、こんなことは不可能だ、ということさえ、できる。本当にそうなのです。これは、やってみたものならだれにでもわかる。

百万の大軍に、ひとりで立ち向かうことさえ、できる。

愚か者はこれがわからない。人間は、よい餌をやれば何でもするものだと思っている。自分が自分であるということだけで、すべてをやるというものの存在を、理解できない。だから、一番大切なところで、選択を誤り、恐ろしい事態をまねく。

金剛不壊、の自分を持つ、人々を、紙くずのように軽く扱えば、どういうことがおこるか、まるでわかっていない。それが愚か者というものです。

この世界のすべての存在は、この金剛不壊の神を、内部に持っている。それが目覚めれば、すべてが始まる。永遠の自分の、創造が始まる。

あらゆるものが美しい、愛の響きの世界が、ひろがってゆく。


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