◇五街道制覇(夫婦旅)最終ラウンドへ
江戸幕府道中奉行管轄の五街道を歩こうと思い立って5年。東海道完踏
(出版・増刷とTV出演)を手始めに、中山道、日光道中は同時進行で、甲州
道中はこの夏前に歩き終えて、さて次は 奥州道中だが、夏場は暑くて歩く
には不向きな季節。秋口がいいだろうなどと思っているうちに、三女の結婚
式で中欧への旅立ちとなってしまった。10月半ばから各種行事が目白押し
となり、グループ旅行、ウォーキング、孫の七・五・三のお祝いと続き、ようやく11
月ぎりぎりで、最後の街道・奥州道中に取り掛かることができた。これで念
願の五街道制覇となる。
11月26日(月)
奥州道中は起点はやはり日本橋。27宿であるが、宇都宮宿までは日光道中
と同じ道筋で17宿を共有する。(宇都宮宿から21里18町85.1km10宿)。
白沢宿・氏家宿・喜連川宿・佐久山宿・大田原宿・鍋掛宿・越堀宿・芦野宿・
白坂宿・白川宿で終わり。その先は伊達藩管轄の仙台道で最後は北海道
函館までの松前道である(普通は竜飛岬で有名な三厩までを指す。)。
というわけで、我々は 日光道中と奥州道中の追分である宇都宮宿伝馬町
からスタート。
5時というまだ暗い内に起き出して、新幹線で宇都宮駅へ。駅からは追分ま
ではTAXIで。それでも歩き出しは9時半になってしまった。
追分から宇都宮氏の中心部を歩き、栃木銀行中央支店で左折する。途中に
は下野国一ノ宮「二荒山(ふたらやま)神社」がある。似てはいるが日光二荒
山神社(こちらはふたらさんじんじゃ)とは祭神も違い関係はない。藤原秀郷、
源頼義、源義家、源頼朝、徳川家康など諸将が戦勝祈願をしたという由緒
ある神社である。
「幸橋」を渡ると目の前に黒々とした家が現れる。国の重文に指定されている
「篠原家」である。18世紀終わり頃から醤油・肥料など商ってきた由緒ある商
家。
明治28年(1895)に建てられたが、戦災で現在の母屋・石倉3棟を残し焼失
した。黒漆喰と大谷石を用いた外壁を持つ重厚な建物である。
ここから白沢宿までは交通量の多い県道脇を歩く。排気ガスには閉口するが、
歩道が広いのが救い。途中に1本だけ街道の松が残っている。名付けて「名
残の松」。
日光道中との追分 重文・篠原家 長屋門 名残の松
[白沢宿]
「白沢宿」は今の河内町。海道町という町名があったりしてしっかり宿場らし
さを残しているわい、と感心する。江戸幕府が街道制度を発足させたとき
には海道と言っていたものの、東海道のように海沿いを走る街道はともかく、
山中を抜ける街道は道中と呼ぼうということになって、中仙道は中山道に、
日光街道、甲州街道、奥州街道はいずれも「道中」に改められている(正
徳6(1716)年)。
「稚ケ坂」や「稚児坂」を上るが、坂というほどのきつさではない。家々はかつ
ての宿場時代の「屋号」を家の前に掲げている。何とか宿場という歴史遺産
を街づくりの一助にしようと心掛けているようだ。街並みは道幅を拡幅したた
め家々は新しくなっているし、多分道幅は2倍くらいになっているので、何とも
間延びしていて、宿場の雰囲気は薄い。
下野地酒「澤姫」醸造元を鋭角に曲がり、西鬼怒川を渡る。しばらく行くと道
は鬼怒川の土手に突き当たる。お腹も空いたので、土手に腰を下ろし、日向
ぼっこの感じでオニギリを食べた。刈り入れ後の田んぼの風景はいい。
土手下にはかつての渡し場跡がある。今は渡しはないので土手を北上して
「阿久津大橋」で鬼怒川を渡る。この橋は長い割りに歩道が用意されておら
ず危険である。
橋の先には樹齢600年の大銀杏や「将軍地蔵」などがある。
街道をしばらく行くと勝山城址で右折し、剣呑な国道4号を横切り、左折して
「氏家宿」に入る。
屋号を掲げる家 澤姫蔵元 西鬼怒川 鬼怒川
[氏家宿]
氏家駅前の栃木銀行前を右折して進む。蔵の上に望楼がある「滝澤家」は
栃木県の有形文化財建造物である。月曜日は休館日で内部の見学はでき
ない。
小高い山裾まで40分くらい黙々と歩く。矢五郎坂手前民家に一里塚跡があ
るということだが見なかった。
山裾右側に「松尾矢五郎博恒墳墓」、「古戦場跡」の碑が建っている。墓は
石段を登る。天文18年(1549)宇都宮尚綱と喜連川城主塩谷惟朝が戦った
際、尚綱はここで鮎瀬矢五郎の矢に当たって戦死した。矢五郎は尚綱供養
のため大五輪塔を建てた。後に人はここを「矢五郎坂」と呼ぶようになった。
坂の途中に「早乙女温泉」がある。ここは日帰り温泉で、泉質は県下一とい
う。我々も何度か入りに来ているが確かに温泉としてはかなり上質の部類
に入るだろう。
坂を越えると下りになるが、右に入る道があり「旧道」と書いてある。入って
みて驚いた。整備がまったくされておらず、倒木あり、草生し、日も差さない。
それなのにカーブミラーがある。なんとも怖ろしい道である。
将軍地蔵 滝澤家・望楼蔵 県有形文化財:滝澤家
矢五郎坂の紅葉 古戦場跡
そのうちぽっと人里に出た。さっぱり方向がわからなくなって、運よく菊の花
を摘んでいたおばさんに道を聞くことができた。田んぼの向こうに見えるの
が「荒川」、手前の道を行くと右手に見える桜並木に突き当たる。桜並木を
行けば宿場中心部に行けるらしい。「桜の頃はそりゃきれいだよ。」とおっし
ゃった。
山の上に展望台らしきものが見える。あれは公園だそうだ。
[喜連川宿]
桜並木は県下でも有名な桜で確かに古木が600mほど連なっている。
喜連川は旧くは狐川と言ったらしい。狐川15代城主塩谷惟久は、人馬調達
の命に従わなかったため秀吉の怒りに触れ出奔した。惟久は古河公方の
流れをくむ嶋子を妻にしていた。秀吉は由緒ある血筋が絶えるのは残念と、
嶋子に3,800石を与え、その弟に跡を継がせた。その際喜連川に改めたの
だという。
また一説には、秀吉はこの地にしばらく滞在したので、好色の秀吉は血筋
に優れ、美貌でもあった嶋子を寵愛し、もしかすると懐妊したかもしれない
ので、しかるべき手当てをしたのが真相であるとの話も残っている。
荒れ果てた旧道 桜並木 荒川で釣りをする人
本日の歩行距離28km。喜連川かんぽの宿で温泉に浸かり疲れを癒した。
(この項終わり)