読書・水彩画

明け暮れる読書と水彩画の日々

赤倉温泉と妙高山

2009年10月25日 | その他

同期会で赤倉温泉に
  郵政省時代の仲間との同期会が新潟県赤倉温泉であった。同期生は関東甲信
 越地域にいて、毎年持ち回りで各地の温泉地などで開催されてるい。今回は長野
 県北信地域の諸君が幹事であった。

  同期は昭和32年~33年に1年間寮生活をしながら勉強した間柄で、「おれ、
 おまえ」の関係。殆どが高校卒業したて。初めて親元を離れたものの、寮生活と
 いうことで周りは同級生のようなもの同士でやんちゃな生活だった。言ってみれ
 ばまだ完全に大人にはなり切れていない、ぼよぼよのひよっこ社会人だった。

  あれから50年みんな70歳以上になったが、宴席では50年前に戻る。残念なが
 ら2人病気で亡くなった。しかし今回は先生(86歳と87歳)お二人のほか、寮の賄い
 をやっていたおじさん(78歳)が初めて顔を出し、大いに盛り上がった。
 
 <温泉旅館>

  赤倉温泉は赤倉高原最大の温泉地で、湯は妙高山の北地獄谷から引いてい
 る。赤倉スキー場・妙高スキー場と一体になって、一時大いに賑わったが、スキ
 ー人口の減少とともに往時の賑わいはないらしい。
  宿の「香雲閣」は、江戸中期、高田の藩主榊原氏の御本陣として開設され、
 湯治・鷹狩りに利用された由緒ある旅館である。堀口大学の書なども展示され
 ている。

    

  展望風呂からは上越市を経て日本海と米山山が、湯船を変えると北信五岳と
 呼ばれる「斑尾山」、「飯縄山」、「黒姫山」、「妙高山」、「戸隠山」のうち戸隠山
 以外の全ての山を見渡すことができる。

<岡倉天心六角堂>
  岡倉天心は明治時代の偉大な芸術家・文化人であるが、終焉の地が赤倉であ
 ったことは不明にして知らなかった。また、茨城県北茨城市五浦(いずら)に
 「岡倉天心六角堂」があって、横山大観、下村観山など多くの画家が修行し、文化
 人を招いて黎明期の画壇形成に力を尽くしたことは、彼の地を訪ね知っていた
 が、赤倉にも六角堂があり(形は全く違う)驚いた。尤もボストン美術館の中国・
 日本美術部長を務めた天心が帰国し、いったん五浦に帰ったものの、体調を壊
 し赤倉山荘で静養していたところ1914年9月に赤倉の地で亡くなっている。こ
 ため有志が天心終焉の地に、記念として昭和41年「六角堂」を山荘跡地に建
 てたものという。
  勇壮な妙高山の姿とマッチしてこれも見事ではある。
  
     
    
<いもり池> 
  妙高高原の一角に「いもり池」という沼地がある。かつては湿地帯で、いもりが
 棲息していたためか「いもり池」と呼ばれている。妙高山を入れると絶好の景観
 となるため人が絶えない。多くの人が絵を描いていた。

  

<苗名の滝>
 日本海にそそぐ1級河川「関川」の上流に、日本100名瀑のひとつ「苗名の滝
 がある。車が入れるところからさらに4~500m山道を登ると華麗な滝が現れる。
 標高およそ800mで、滝つぼからオゾンをたっぷり含んだ霧が舞い上がっている。

  

長野善光寺と母校
 <長野駅と商店街>
  
高校生時代の5年間を過ごした長野市はわが第二の故郷の存在。信州博覧
 会があった平成5年以来ご無沙汰していたが、この度訪れてその変貌ぶりに
 驚いた。有名な善光寺を模した駅舎が、どこにもあるモダンなものに変わり、商
 店街も昔の古臭い、殿様商売を象徴するようなものから、観光客を意識した明
 るい印象の店舗に変わった。聞けば長野冬季オリンピックと新幹線開通を期し
 てすっかり変わってしまったようだ。
  
     
 
    

   

 <我が母校と長野善光寺>

  長野市では5年間に何と7回住まいが変わった。それぞれ事情があってのこと
 ではあるが、その後我がかつて住まいし宿は如何にと訪ねてみれば、全て別の
 建物に変わり思い出をたどるよすがもない。4個所を巡ってあとはあきらめた。
  我が母校も変わった。木造の古びた校舎は瀟洒なまるでケア付き特養ホーム
 のようなたたずまい。最近は女子が増えているようだ。昔は戦時中白い壁が目
 立つということで墨を吹き付けてあった正門の建物は、白い壁が復活し「金鵄
 館」という財団法人の会館として保存されていた。

    

     

     

     

   (この項終わり)

 


 

コメント
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