◇またも佐々木譲「警官の血」2007年新潮社刊(上・下)
「笑う警官(元題名:うたう警官)」・「制服捜査」・「警察庁から来た男」など
佐々木譲の作品の面白さに魅せられて、彼の警察物の系譜から割りと初期の作
品「警官の血」を図書館から借りて読んだ。
佐々木譲は警察ものにとどまらず、サスペンス、ホラー、冒険小説、ハードボイルド、時代
小説、ノンフィクション、企業もの、恋愛もの・・・なんでもござれという多彩なジャンルの作家
である。次は「警官の紋章」や「エトロフ発緊急電」など読んでみたい。最新作は「廃
墟に乞う」(2009.7文芸春秋社)
警官という仕事は、国家統治機能のひとつ法執行者として重要な役割を担って
いるが、戦後まもなく男手が払底していたとき、治安維持のため増員した警察官
は員数合わせ的なドサクサでいろんな人が採用されたようである。
「警官の血」(上・下)は、戦後まもなく警官となり、頼りになるお巡りさんとして上
野・天王寺駐在所に勤務中、五重塔火災の現場近くの鉄道線路に不可解な転
落死を遂げる。勤務中ながら自殺扱いの汚名を負う。これが安城家の祖父「清
二」。
父の後を次いでやはり駐在所の巡査を目指しながらも、公安のスパイとして過
激派組織に潜入させられ、数奇な経過を辿りつつ、ついに殉職にいたる父「民
雄」。
祖父と父の死にまつわる不可解な出来事の解明を通して祖父と父の汚名を雪
ごうとする「和也」。
親子三代の半世紀に亘る警官一家の生き様が中心にあるが、戦後混乱期、復
興期、高度成長期における社会の主要な出来事が折々の事件の背景として横糸
をなしており飽きさせない。
この大河小説の主題は何か。警察組織の「公安」が暗い影を落としている。戦
後しばらく武装革命を標榜していた日本共産党、大学紛争にめばえた過激な学
生運動、赤軍派の暴走、警察組織の暗い部分などが警官一家安城家の人々に
数奇な運命を強いる。しかし、事件の背景を探っていって、漸く到達した上辺の公
式的な動きの陰には、なんとも個人的な性倒錯の世界が潜んでいたということが
和也にとって実にやるせない衝撃であったはずである。
子は親の背中を見て育つというが、父の働く姿を身近に見て育った子は、父と
同じ世界で働きたいと思う。親としては嬉しいだろう。周囲も良い育て方をしたと
父を称える。しかしこの話はそれだけではない。祖父と父の不可解な死の背景を
明かそうという強い意志があって、長い年月の末漸くその意外な事実が明らかと
なるが・・・。なんともつらい結末であるが、最終章で和也が胸がすくようなしっぺ
返しをするのが大いなる救いである。
この作品は本年2月テレビ朝日でテレビドラマ化された。
(この項終わり)
◇初取り「小玉西瓜」
しばらくぶりに作った小玉西瓜、ようやく収穫の時期を迎えた。
先達のブログによれば、授粉後30~40日で収穫適期となるらしい。
今回一番早くとれるのは7月1日に授粉したもの。今年は夏らしい
雰囲気の日が少ないので35日くらいで収穫しようと思っていたが、
昨7日に三女が友達の女児も一緒に娘を我が家の(ビニール)プール
で遊ばせたいというので、では摘果を少し延ばしてこの日に初取
り小玉西瓜をお披露目しようと、前日に採って仏様に供えた。
さて昨日は朝から少し太陽が出て暑くなった。プール日和。朝から
水を張って温めて置いた。前回長女と次女の子供らが来たときは結
構夏らしい暑さで、子供らも大騒ぎだった。プールを置いた庭のポー
チの周りに蚊取り線香の輪っかをいくつも置いて結界を作った。
さてプール遊びも終わり、母親たちも一休み。西瓜を切る。叩い
てみると一応音は軽く、熟している感じはするが、やや不安。
普通西瓜は十分熟していると、包丁を当てただけでピーンと割れ
るものだが、その勢いがない。
しかし開いて見て一安心。見事な黄色小玉西瓜だった。食べて
みると十分甘い。
種を見るとまだ真黒になっていないのがいくつも見られて、少し早
かったのかなと思う。先達のブログによれば、日中の平均気温の積
算値が755度と言っていたが、今年の場合、8月1日が丁度799度。
6日までだと922.9度。これでもまだ少し早いとなるとこの積算値
はあやしいことになる。地域性もあるだろうが、今年は気温はともか
く日照時間が少なく、最高気温が28度を超えた日が14日、降雨の
なかった日が17日しかない。摘果時期はこうした要因も加味した方
がよいかもしれない。
(この項終わり)
◇両性具有の美「阿修羅像」
本年3月から6月まで上野国立博物館で奈良興福寺の国宝がいくつも公開された。生憎鑑賞する機会が作れなかったが、観客の長蛇の列は観た。
人気の一つは門外不出であった天平彫刻の傑作のひとつ、「阿修羅像」のようである。かつて興福寺参観の折に、西金堂の「八部衆立像」
の中の「阿修羅像」を観た。予て美術書などでこの著名な仏像を知り、一度は本物をと思っていたので、薄暗い金堂内の光の中に立つ阿修羅像には感動した。
奈良時代の734年の作とされているが、この頃の仏像に多い脱活乾漆造。
座像・立像を問わず、仏像はおおむねパターンが決まっていて、お顔の表情にわずかに個性を感じ取るだけであるが、この像は何故これほどまでに人気を博しているかと言えば、あまりにも人間的な魅力をあからさまにしているからであろう。
一般的には美少年、ないしは美しい青年ということのようであるが、
年若い女性であるという人もいる。これも決して少数派でもないだろう。
確かにすらりとした華奢な腕、切れ長で清冽な眼差し、やわらかな頬骨、あえかな胸のふくらみ、等々女性説を裏付ける徴は多々ある。
(私はかねがね阿修羅の、ややつり上がった切れ長な眼差しに、今は亡き女優夏目雅子を見ていた。)
男女どちらともとれるということは、人間が男女に引き裂かれる前の原初の姿を表象するものとして、奇しくも作者(正倉院記録で仏師将軍万福絵師牛養とされる。)が選んだ阿修羅像なのかもしれない。
元来八部衆はインドで古くから信じられていた異教の8つの神を集め、仏教を保護し仏に捧げものをする役目を与えたものという(興福寺国宝殿解説から)。阿修羅は八部衆の一人。
阿修羅は梵語「アスラ」の音写で、インドでは太陽神、仏教では釈迦を守護する神に位置づけられている。
八面六臂の活躍などという言葉があるが、阿修羅像は三面六臂。
両側の二面は明らかに男性(少年と青年)であろう。表情からは力強さが伝わってくる。
さて、この神秘的ともいえる「阿修羅像」の表情をどこまで写せるか。
無謀ともいえる試みではあるが、まずは挑戦。
本物を前に写生することはできないので、写真を見ながら描く。
写真は国立博物館展示のポスターと、「国民の歴史」の挿入写真。
一番のポイントは眼。次は唇。ついで柔らかくかつ初々しい頬。
なかなか本物の姿は写し取るのは難しい。さらなる研鑽が必要だ。
<参考>
国立博物館のポスター