永遠のゼロ・・・・その2

2013年10月24日 | 読書
 これは飛行機乗りの見た戦争ですから、陸軍の戦いについてはそんなに触れていませんが、
日本の戦争の中身はこんなだったのだというのはわかります。

 大正、昭和初めの時代に生まれた人々・・・・いやあ戦争はそれまでたくさんあったけれども、海を越えての戦争はそうはなかったから、そして武器がどんどんと殺傷能力を増していったから。

 1銭5厘で集められる兵がどんなふうに使い捨てられたのかよくわかります。

 そして特攻という戦術があらわれるのです。

 特攻は志願兵の中から募って、あくまで自由意思ということになっていたようですが、断ることなどできなかったのではないでしょうか。

 その頃には、ろくな飛行機も燃料もなく、訓練もろくにせずにただ敵に飛び込むことのために
実践経験のない新米添乗員を飛ばしても、結果は出なかったのでしょう。

 でも続けられました。

 人は国の宝・・・・戦後生まれの私はなんの疑いもなくそう信じていますが、かってそんなことを口にすることもできずに、お国のためにと死んでいきました。

 でも本当に国のためになったのでしょうか。この国の戦争を指揮していた人たちは何のために戦ったのだろうかと深く考えさせられたのでした。

 未来を背負う人たちを使い捨てのように死なせてしまった戦争を憎みます。

 あまりにも悲しい世代が私たちの1代前なのです。20歳前後で戦場に散って行った命だけではなく、親も子も妻も悲しい時代でした。

 3年ほど前鎌倉を訪れた時、ボランティアガイド氏が是非ここを見ていってくださいと言われた場所で「海軍神雷部隊の慰霊碑」をお参りさせてもらったことがありました。

 そこで読んだ説明文やガイド氏の説明では知りえなかった悲惨をこの本で知りました。

 近所のおじさんは「回天」の生き残りだときいたことがありましたが、とうとう踏み込んで聞く機会のないままに、亡くなられてしまいました。

 回天とは人間魚雷・桜花とは人間爆弾・地雷を背負って戦車に飛び込むのは人間地雷等々、恐ろしい戦術が考えられたものです。

 折も折先日信濃毎日新聞に「戦後70年の記憶」「誰も死にたくなかった」と「駆潜艇航海士と特攻隊員 身近にあった死」の見出しで母校の先輩お二人の記事が載ったのでした。
 
 お一人はよく知っている方でした、時たまに戦没者慰霊のニュースでお見かけしていましたから、特攻隊員であったことは存じ上げていました。この方は海軍の回天でした。

 43年11月の明治神宮で25.000人の学徒筆陣の壮行会は子供の頃からよく聞いたり、耳にしていたが、お二人はこの時に筆陣された。そしてこの年と翌年の人たちが、のちの海軍の特攻の主力となったのです。

 桜花・・・人間が操縦するロケット爆弾で飛行機てはありません。自力で飛び立つことも着地も旋回もできずに、ただまっすぐに滑空することしかできないのです。飛行機に懸吊されて上空から敵艦に向かって飛んでいくだけなのです。

 だから高空から急降下して目的物にぶつかる訓練も、失敗すれば即死。なんと残酷なのでしょう。

 読めば読むほどに、その恐ろしさが伝わってきます。

 戦争なんか2度とあってはならない。誰にもこんなつらいことをさせたくありません。

 昭和30年代は戦争の話を聞くことはたびたびでしたから、子供心にも戦争は嫌だと思っていました。

 小学校2年の時、先生が「日本は法律で戦争をしない」と話してくれたことがあったのでした。

 その時胸の中にパアーッと広がった温かいものを今でも忘れることができません。 

 みなさん是非お読みください。そして戦争のない世界をめざしましょう。

 いまや努力なしに平和な時代を維持するのがむずかしいと思えませんか。                            
                             依田美恵子

軽井沢・佐久で建てる外断熱・省エネ住宅 中島木材の家


                          


【 中島木材のホームページは こちら


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