座光寺正裕さんのこと。

2017年01月12日 | 日々のこと
1月6日付の信濃毎日新聞の「斜面」に「座光寺正裕」さんのお名前を見た。

 現在「南牧村診療所長」だという。

 原発事故後も避難せずに診療を続けた福島県広野町の病院長の高野英男さんがが年の瀬、自宅の火災で亡くなられた。81歳だつたという。

 3.11の時、約100人の入院患者がいた。医師免許を奪われても重症患者は動かせないと、覚悟を決めて患者に寄り添ったという。

 非常勤医師の手をかりつつ81歳ながら週3~4日の当直も務めた。

 高野さんの急逝は病院の存続に関わる。

 南相馬市立総合病院の若手医師が「高野病院を支援する会」を発足させ、全国からボランティアの医師を募る活動を始めた。

 座光寺さんはいち早く手を挙げ、今月22日に応援に出向く。

 前半はそんな内容である。後半の内容は重い。

 私が座光寺さんに出会ったのは2001年のことと思う。当時佐久長聖高校に在籍しておられた。

 佐久ライオンズクラブのYCE委員長(当時の名違ったような)だった私は、ライオンズクラブの海外交換派遣学生の事業で、応募してきた彼にいきあった。

 派遣対象は16歳以上で、訪問国での日常生活に困らない程度の英会話能力があることになっていて、英語のスピーチコンテストの優勝者がその対象となった。

 安曇野でのコンテストは、座光寺さんは抜群のスピーチで優勝した。コンテストの後、彼と私の前で主催担当者が、希望先が偏ってしまってというようなことを漏らした。ペルーなんかいかないかな・・・・と。すかさず「ペルーでもいいんですか」と目を輝かせた座光寺さんだった。

 春休み中国の奥地の少数民族の住む辺りに友人と出かけていて、新学期に間に合わないと連絡があったというエピソードを聞いていたが。中高一貫高校にいたのに、中学卒業後1年間休学していて海外を放浪していたらしいことを知ったのは後々のこと。

 どちらにしても、大物だった。

 ペルーからの帰国報告会の折、「ぺルー・スケッチ」という小さな写真集をいただいた。

 将来はお医者様その頃うかがったのかもしれない。大学は中央でなくてと九州大学を選んだ。

 僻地や農村医療は彼の中にズッとあったような気がする。

 だから佐久総合病院の医師の中に彼の名を見た時、やっぱりと胸に落ちたのだった。

 2年半前佐久の医療センターで兄の最期を看取ってくれたのも彼だという。

 現在南牧村診療所で訪問治療もこなしているのだろう。佐久総合病院の原点みたいな物だろうな。

 その彼なら、今回のボランティアに即手を挙げたのがとてもよく分かる。

 高校生の彼にあって、こんな息子が欲しいと思った日を思い出した。

 座光寺さんのような人間が、世の中を変えていくのかもしれない。

 そういう人がたくさんいたら、地球も変わっていくだろうな。

 ガンバレ座光寺さん、ますますのご活躍とご健勝をお祈りしています。そしていつまでもあなたのことを見ています。
                                 依田 美恵子
  軽井沢・佐久で建てる外断熱・省エネ住宅 中島木材の家


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