滝川大正大学教授から彼の編集による「そだちの科学」9号が送られてきた。彼とは10代からの友である。
この本の冒頭に滝川による道案内的論文「視聴覚障害とそだち」が載っている。
滝川は昔から本当のことしか言わない人物で、その上、ものごとの表層をなでるだけではなく、本質にまで深めて考察することを得意としていた。
上述の論文も、そうした彼の傾向がよく表れている。
彼は「障害」とは何かと考察している。「障害」と言うと「正常ではない」と考えられがちだが、彼の視点はちょっと違う。
例えば聾は耳が聞こえないので音声言語を内言語として持てないが、手話言語を内言語としている。そのため聾は「障害」というより社会的マイノリティーであるだけであって、健聴者が大部分を占める社会では<不自由さ>や<生きにくさ>がある。
もし聾者がマジョリティーである社会なら、手話言語を持たない健聴者のほうが<不自由さ><生きにくさ>を感じるだろうと彼は言う。
事実、聾者が「ろう文化宣言」というのを出して、自分たちはなにも不自由は感じないと宣言したことがあるそうだ。
一方、盲は聾とは少し違って、「盲文化宣言」というのを出していない。だから、彼は「盲と聾とをいっしょくたに論じるな」と言う。(そのように私には聞こえる)。
発達過程で親と共通世界を「障害児」なりに獲得していく道のりを無視して、親と違うから「障害」、「障害」と言い立てるのはいかがなものか?せっかく手話という内言語を見につけているのに、人口内耳を取り付けて音声言語の側にひっぱるのは、それはそれで問題があるのだそうだ。
知的障害や広汎性発達障害にも同じようなことが言えるという。どんな障害でも障害者の発達過程と内的世界に目を向けなければ本質はつかめない滝川は言いたいのではなかろうか?
彼は明確には言っていないけれども、「障害」は科学的な用語ではなく、行政用語である。保護や補助をするためには、「劣っている」、「可哀想である」という国民的な合意が必要で、そのために「障害」という名称を行政が付けた。それで話が単純化されてしまい、「障害」の緻密な考察がやりにくくなってしまった、と彼は訴えているように思えた。
この本の冒頭に滝川による道案内的論文「視聴覚障害とそだち」が載っている。
滝川は昔から本当のことしか言わない人物で、その上、ものごとの表層をなでるだけではなく、本質にまで深めて考察することを得意としていた。
上述の論文も、そうした彼の傾向がよく表れている。
彼は「障害」とは何かと考察している。「障害」と言うと「正常ではない」と考えられがちだが、彼の視点はちょっと違う。
例えば聾は耳が聞こえないので音声言語を内言語として持てないが、手話言語を内言語としている。そのため聾は「障害」というより社会的マイノリティーであるだけであって、健聴者が大部分を占める社会では<不自由さ>や<生きにくさ>がある。
もし聾者がマジョリティーである社会なら、手話言語を持たない健聴者のほうが<不自由さ><生きにくさ>を感じるだろうと彼は言う。
事実、聾者が「ろう文化宣言」というのを出して、自分たちはなにも不自由は感じないと宣言したことがあるそうだ。
一方、盲は聾とは少し違って、「盲文化宣言」というのを出していない。だから、彼は「盲と聾とをいっしょくたに論じるな」と言う。(そのように私には聞こえる)。
発達過程で親と共通世界を「障害児」なりに獲得していく道のりを無視して、親と違うから「障害」、「障害」と言い立てるのはいかがなものか?せっかく手話という内言語を見につけているのに、人口内耳を取り付けて音声言語の側にひっぱるのは、それはそれで問題があるのだそうだ。
知的障害や広汎性発達障害にも同じようなことが言えるという。どんな障害でも障害者の発達過程と内的世界に目を向けなければ本質はつかめない滝川は言いたいのではなかろうか?
彼は明確には言っていないけれども、「障害」は科学的な用語ではなく、行政用語である。保護や補助をするためには、「劣っている」、「可哀想である」という国民的な合意が必要で、そのために「障害」という名称を行政が付けた。それで話が単純化されてしまい、「障害」の緻密な考察がやりにくくなってしまった、と彼は訴えているように思えた。