小学校2年生のときにピアノを習いたいと親に申し出た。
親の反応は「おまえは体が弱いから習い事は無理だ」というものだった。実はピアノを買う財力がなかったのではないかと今でも疑っている。
小学校3年生のときには、算盤を習いたいと申し出た。
父親の答えは「算盤を弾くような仕事には就くな」というものだった。これは一理ある。算盤は電卓に凌駕されてしまったけれども、今日的に言うなら「電卓を叩くような仕事には就くな」ということだろう。
父親は算盤を弾く仕事だった。金の計算をするのがよっぽど嫌だったのだろう。息子には金の計算をさせたくないという、父親の気持ちを感じて今は感謝している。じじつ、私は金の計算に汲々とする仕事には就かなかった。
ピアノを蹴られたので、中学生になってから学校のピアノで猛練習した。しかし、独学の悲しさで、ベートーベンのソナタの一部を弾けるようになるのがやっとだった。
やっと習い事を始めたのは37歳のとき、俳句結社に入ってからである。俳句は未だに続けているが、上手くならない。才能がないのだろう。
親の反応は「おまえは体が弱いから習い事は無理だ」というものだった。実はピアノを買う財力がなかったのではないかと今でも疑っている。
小学校3年生のときには、算盤を習いたいと申し出た。
父親の答えは「算盤を弾くような仕事には就くな」というものだった。これは一理ある。算盤は電卓に凌駕されてしまったけれども、今日的に言うなら「電卓を叩くような仕事には就くな」ということだろう。
父親は算盤を弾く仕事だった。金の計算をするのがよっぽど嫌だったのだろう。息子には金の計算をさせたくないという、父親の気持ちを感じて今は感謝している。じじつ、私は金の計算に汲々とする仕事には就かなかった。
ピアノを蹴られたので、中学生になってから学校のピアノで猛練習した。しかし、独学の悲しさで、ベートーベンのソナタの一部を弾けるようになるのがやっとだった。
やっと習い事を始めたのは37歳のとき、俳句結社に入ってからである。俳句は未だに続けているが、上手くならない。才能がないのだろう。