司馬遼太郎はいまだに人気があるし、私も好きである。
司馬遼太郎批判の中に、彼は「人物史観」であるというのがある。「人物史観」というのは、歴史を人物の出現によって読み解くもので、たとえば「坂本龍馬がいなかったら、明治維新は違ったものになっただろう」という考え方である。
「人物史観」でないものはというと、「坂本龍馬がいなくても、他の誰かが出てきて、明治維新は似たようなものになっただろう」という見方である。
数学史を見ると、圧倒的に「人物史観」が多い。リーマン幾何学がなかったら、アインシュタインの相対論は生まれなかったという説は正しいだろう。でも、リーマンがいなくても、同じような幾何学が生まれたかもしれない。
数学史ではリーマンが教授資格取得講演でガウスに認められなかったら、という言い方で語られる。
3000年来のユークリッド幾何学を覆したのは、19世紀のリーマンだった。リーマンの講演は実質的にはガウスに向けて行われた。多くの聴衆の中でガウスだけがリーマンの斬新な幾何学を理解し認めて、その後の幾何学の大変革が始まった。
リーマン幾何学がなければ、宇宙の形を4次元の球形としたポアンカレ予想も生まれなかったし、100年後にポアンカレ予想が肯定的に解かれることもなかった。
ゆえに数学史はほとんどのものが「人物史観」である。私はこれを「本当にそうだろうか?」と思う者である。早かれ遅かれ、リーマンやガウスやアインシュタインと同等の人物が出てきたのではないかと夢想する。
司馬遼太郎批判の中に、彼は「人物史観」であるというのがある。「人物史観」というのは、歴史を人物の出現によって読み解くもので、たとえば「坂本龍馬がいなかったら、明治維新は違ったものになっただろう」という考え方である。
「人物史観」でないものはというと、「坂本龍馬がいなくても、他の誰かが出てきて、明治維新は似たようなものになっただろう」という見方である。
数学史を見ると、圧倒的に「人物史観」が多い。リーマン幾何学がなかったら、アインシュタインの相対論は生まれなかったという説は正しいだろう。でも、リーマンがいなくても、同じような幾何学が生まれたかもしれない。
数学史ではリーマンが教授資格取得講演でガウスに認められなかったら、という言い方で語られる。
3000年来のユークリッド幾何学を覆したのは、19世紀のリーマンだった。リーマンの講演は実質的にはガウスに向けて行われた。多くの聴衆の中でガウスだけがリーマンの斬新な幾何学を理解し認めて、その後の幾何学の大変革が始まった。
リーマン幾何学がなければ、宇宙の形を4次元の球形としたポアンカレ予想も生まれなかったし、100年後にポアンカレ予想が肯定的に解かれることもなかった。
ゆえに数学史はほとんどのものが「人物史観」である。私はこれを「本当にそうだろうか?」と思う者である。早かれ遅かれ、リーマンやガウスやアインシュタインと同等の人物が出てきたのではないかと夢想する。