院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

中日新聞、品種改良悪玉論を展開か?

2011-10-03 06:52:24 | Weblog
 これからもポルトガルの話が続くので、今日は一服して別の話題にしてみよう。

 2011年9月30日の中日新聞愛知県版の投書欄に71歳の男性が次のような投書を寄せていた。

 「最近はタネ無しブドウが多い。食べるに楽だが、いかにも人工的な感じがする。ブドウはやはりタネを吐き出しながら食べたほうが風情がある」

 細かい表現は違うが、要旨はこのようなものだった。私には素人の投書者を責めるつもりはない。投書者は常に善意であることも分かっている。責められるべきは投書を掲載した中日新聞である。新聞社はプロであるから、ちょっと責めさせてもらう。

 この投書のどこがいけないのか、気付かれない読者も多かろう。いけないのは、品種改良を否定している点である。次のように言い換えれば分かるだろう。

 「最近は豚肉が多い。食べるにおいしいが、いかにも人工的な感じがする。元のイノシシのほうが臭みや歯ごたえがあって風情がある」

 以上のような意見に書き換えれば、この投書が無理スジであることはすぐに分かる。

 実は品種改良は、農耕が始まる1万5千年前の新石器時代から行われていたのである。野生で普通に採れる植物を、わざわざ畑で栽培する必要はない。

 新石器時代の農耕遺跡の穀物遺物は、すでに4倍体は当たり前で、8倍体や12倍体もあるという。品種改良があって、初めて農耕が可能になったわけだ。

 カイコも同断である。今や天然のカイコなんてない。必ず人間が手を加えなければ、カイコは種の保存ができないほどに「改良」されてしまっている。

 アワ、ヒエ、ムギ、イネも、それらが栽培され始めたときには、もちろん改良済みである。

 タネのあるブドウも、それ自体が品種改良の結果、甘くなったものである。そのようなブドウにタネがあるかないかなぞ、問題にするに値しない。

 あるいは、品種改良イコール人工的イコール良くない、という誤った議論を導き出そうとしているかのようにも見える。

 新聞社の人間と言えば、教養人として誰しもが認めるところである。その新聞社が、このような投書を採用してはいけない。

 新聞社は「庶民感覚の一意見を紹介しただけ」と逃げるかもしれない。ファッションやマナーのことなら、そうやって逃げてもよい。しかし、ここで取り上げている例は食料の問題である。情緒的な品種改良悪玉論を助長するような(新聞社の)姿勢を見過ごすことはできない。