少し前、鳥インフルエンザが流行ったとき、鶏舎を丸ごと「消毒」するということが行われ、繰り返し報道された。この時、私は「おかしいな」と思った。医療関係者には「おかしい」と思った人が多かったのではあるまいか?
どこが、おかしいかというと、ウイルスは消毒液では殺せないからである。消毒液はバクテリアを殺す物質である。しかし、テレビでは鶏舎に液体を噴霧する映像をしきりと流して、「消毒」と言っていた。
この点をウイルスに詳しい先輩医師に聞いてみた。そうしたら先輩医師は「あれは消毒をしているのではなくて、希釈をしているのではないの?」と答えた。でも、報道では「希釈」という用語は一度も出てこなかった。
確かに「希釈」は病原体の効力を弱める。それはバクテリアもウイルスも同じである。だとすると、あの「液体」は水だということになる。
逆性せっけんだという医師もあった。だが彼も、逆性せっけんがウイルスを殺すかどうかについては知らなかった。私も知らない。もしかすると、あのときの「液体」は本当に消毒液だったのではないか?だとしたら、ものすごい無駄遣いだ。
やがて鶏舎の「消毒」は、石灰の粉に変わった。これもウイルスに効力があるのかどうか、未だに私は知らないが、消毒液よりは経済的である。
そこで、このたびの放射性物質の「除染」だが、高圧水流で屋根や壁を洗う映像が流されている。
再び私が不思議に思うのは、「屋根や壁を洗浄して、その排水はどこへいくのか?」ということだ。屋根や壁からは放射性物質は減るかもしれない。でも排水が側溝へ流れるだろう。今度は側溝が汚染されることになりはしないか?
ばい菌と違って、放射性物質を「殺す」ことはできない。だから、洗浄してできることは、汚染の場所を「移動」させるということだけである。
ここでもまた「希釈」という概念が出てくるのだろうか?地域全体の「希釈」なんて洪水でも起こさない限りできるのだろうか?「希釈」するのに高圧洗浄機が必要なのだろうか?ホースで大量の水を撒くだけではダメなのだろうか?
科学的に考えると、「除染」という用語または行為には胡散臭さが付きまとっている。
私が昔、行政にいたころ、「科学的な真実が重要なのではない。住民が安心したような気になることが重要なのだ」と教わったけれども、今回の「除染」も同じ思想によるものなのだろうか?
どこが、おかしいかというと、ウイルスは消毒液では殺せないからである。消毒液はバクテリアを殺す物質である。しかし、テレビでは鶏舎に液体を噴霧する映像をしきりと流して、「消毒」と言っていた。
この点をウイルスに詳しい先輩医師に聞いてみた。そうしたら先輩医師は「あれは消毒をしているのではなくて、希釈をしているのではないの?」と答えた。でも、報道では「希釈」という用語は一度も出てこなかった。
確かに「希釈」は病原体の効力を弱める。それはバクテリアもウイルスも同じである。だとすると、あの「液体」は水だということになる。
逆性せっけんだという医師もあった。だが彼も、逆性せっけんがウイルスを殺すかどうかについては知らなかった。私も知らない。もしかすると、あのときの「液体」は本当に消毒液だったのではないか?だとしたら、ものすごい無駄遣いだ。
やがて鶏舎の「消毒」は、石灰の粉に変わった。これもウイルスに効力があるのかどうか、未だに私は知らないが、消毒液よりは経済的である。
そこで、このたびの放射性物質の「除染」だが、高圧水流で屋根や壁を洗う映像が流されている。
再び私が不思議に思うのは、「屋根や壁を洗浄して、その排水はどこへいくのか?」ということだ。屋根や壁からは放射性物質は減るかもしれない。でも排水が側溝へ流れるだろう。今度は側溝が汚染されることになりはしないか?
ばい菌と違って、放射性物質を「殺す」ことはできない。だから、洗浄してできることは、汚染の場所を「移動」させるということだけである。
ここでもまた「希釈」という概念が出てくるのだろうか?地域全体の「希釈」なんて洪水でも起こさない限りできるのだろうか?「希釈」するのに高圧洗浄機が必要なのだろうか?ホースで大量の水を撒くだけではダメなのだろうか?
科学的に考えると、「除染」という用語または行為には胡散臭さが付きまとっている。
私が昔、行政にいたころ、「科学的な真実が重要なのではない。住民が安心したような気になることが重要なのだ」と教わったけれども、今回の「除染」も同じ思想によるものなのだろうか?