院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

俳句における「発見」の2様態

2012-09-28 05:22:47 | 俳句
 俳句では「発見」が重視される。「発見」には2様態があるようである。

 まず、高浜虚子の俳句を見てみよう。

     流れゆく大根の葉の速さかな  虚子

 この句の「発見」は「速さ」である。言われてみれば、川で洗われた大根の葉はさっと流れていく。現実の事象の中に「はっと思わせるもの」を「発見」する。この句は虚子がいう「客観写生」によって「発見」をしている好例だろう。

     その中に金鈴をふる虫一つ  虚子

 この句では「金鈴」が「発見」である。一つだけ別の音色で鳴いている虫が混ざっていたということである。そのような「発見」を「金鈴をふる」と表現した。だが、「金鈴」は虚子の主観であり、「客観写生」とは言いがたい。これを「主観写生」と呼びたいとは9月20日にここに述べた。

     かなたまで人ばらまかれ潮干狩り  拙句

 人が点在しているところを「ばらまかれ」と言った部分が「発見」である。これも「主観」である。虚子が言う「客観写生」はきわめて難しく、せいぜい「主観写生」に留まってしまう。

 だが、多くの素人俳句は「主観写生」さえ行なわれていない。毎日、駄句が山のように生産されている。