(環境省のパンフ。)
縁台のヘボ将棋には興味がありません。でも「ヘボ」にも存在意義があります。将棋界のすそ野を形成しているのは、ヘボ将棋を打つおじさんたちです。すそ野があるからこそ羽生名人が名人として尊ばれるのですよね。
話は飛躍します。平安京の都でさえ死体が転がっていましたが、だれも見向きもしませんでした。芭蕉にも「野ざらし紀行」があるように、ちょっと旅に出れば行き倒れのまま野ざらしになった遺体が放置されていました。
昭和初期の新聞には、奇形児を見世物小屋に売った親を非難する記事があります。つい昭和の中ごろまで子どもは親の所有物で、煮て食おうが焼いて食おうが親の勝手でした。間引きも捨て子もふつうに行われていました。(捨て子は翌日には野犬たちに食い散らかされていました。)
個人の命の重さが、むかしは現代とは比較にならないくらい軽かったのです。(現在の日本では遺体が山に一体見つかっただけで、大騒ぎになりますよね。)
私が幼いころの少女漫画や紙芝居は児童虐待が定番でした。(まま母によって、主人公の女の子だけが家族とは別に粗末な食事を台所で与えられるとか。グリム童話の「灰かぶり(シンデレラ)」は要するにいじめと、それに対する復讐のお話です。)
そこで動物愛護の思想ですが、動物を愛護するのは人間を愛護する「すそ野」だと思います。動物愛護の考えがあるからこそ、人間はもっと大事にしなくてはならないという意識が芽生えます。
ここで冒頭の将棋の話と結びつくのですが、何事もそす野が広くなければ頂上は高くなりません。動物愛護の精神は、人命を尊ぶという観念のすそ野であると考えると、動物愛護主義をあながち偏向した趣味だとは片づけられないのです。
(私は動物愛護主義者に対して「では諸君はなぜ豚や牛を喰うのか?」と責めてきましたが(2014-10-06)、人間愛護の「すそ野」として存在価値があることを認めましょう。)
(「犬公方」として軽蔑された将軍、綱吉は虫類まで愛護せよと命じましたが、同時に捨て子の禁止、老人愛護なども発令しました。たいへん進んだ将軍だったと言えましょう。)
※今日、気にとまった短歌
遠足の点呼常より高き声黒磯駅の思わぬ活気 (宇都宮市)藤本一誠