(芭蕉の肖像画。早稲田大学の古典籍総合データベースより引用。)
私は「俳聖」松尾芭蕉の俳句のどこがよいのか分からない。あくまでも古典として知識で知っているだけである。
そもそも芭蕉が「俳聖」と呼ばれるようになったのは明治時代で、当時の俳諧師たちが自らのアイデンティティーの拠りどころとして芭蕉を「俳聖」に祭り上げたらしい。(明治維新の学制改革で教師が足りなくなり、僧侶などの「教養人」が教師として取り立てられた。「教養人」の中には俳諧師も入っていた。俳諧師たちは、自分たちはただの教養人ではなく、俳諧師だと言いたかったのかもしれない。)
正岡子規は、むしろ「蕉風」のアンチとして俳諧を俳句と言い換え、写生を強調した。ところが私には子規の俳句がつまらない。これは私だけの意見ではなく、「子規は駄句の山を築いた」と言った有力俳人と食事をしたことがある。子規の句にかんする「鶏頭論争」なんて裕福なヒマ人のお遊びである。(そのころ私のおじいさんは馬車馬のように働いていた。)
「これはいい句だ!」と私が思うと、たいがい高濱虚子の俳句なのだ。私はホトトギス系の結社にも属しているが、ホトトギス本体には投句したことがない。それはホトトギスの「家元制」が嫌いだからだ。私と同じころからホトトギス本体に投句している人は皆、ホトトギス同人になった。(20~30年間投句を続けないとホトトギス同人にはなれない。ホトトギス同人に推挙されることはたいへんな名誉で、叙勲と同じように祝賀パーティーを開く人が多い。俳句をやるにも、なかなか金がかかるのである。)
ホトトギスと袂を別った水原秋桜子の俳句も私には「すごい!」とは思えない。彼は有季を守ったが、彼に倣った新興俳句運動は季語を捨ててもっと過激になっていった。無季不定形なんて、私にとってはただのザレ言である。
(茶道華道の家元制は集金システムだ、あんなの芸術じゃないと白洲正子は言った。)
※今日、気にとまった短歌
さびしさを吾子には抱かせまいとして痛めた手首耐えて抱く日々 (埼玉県吉川市)猫丘ひこ乃