院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

芭蕉の俳句が解らない!

2015-07-20 17:06:20 | 俳句

(芭蕉の肖像画。早稲田大学の古典籍総合データベースより引用。)

 私は「俳聖」松尾芭蕉の俳句のどこがよいのか分からない。あくまでも古典として知識で知っているだけである。

 そもそも芭蕉が「俳聖」と呼ばれるようになったのは明治時代で、当時の俳諧師たちが自らのアイデンティティーの拠りどころとして芭蕉を「俳聖」に祭り上げたらしい。(明治維新の学制改革で教師が足りなくなり、僧侶などの「教養人」が教師として取り立てられた。「教養人」の中には俳諧師も入っていた。俳諧師たちは、自分たちはただの教養人ではなく、俳諧師だと言いたかったのかもしれない。)

 正岡子規は、むしろ「蕉風」のアンチとして俳諧を俳句と言い換え、写生を強調した。ところが私には子規の俳句がつまらない。これは私だけの意見ではなく、「子規は駄句の山を築いた」と言った有力俳人と食事をしたことがある。子規の句にかんする「鶏頭論争」なんて裕福なヒマ人のお遊びである。(そのころ私のおじいさんは馬車馬のように働いていた。)

 「これはいい句だ!」と私が思うと、たいがい高濱虚子の俳句なのだ。私はホトトギス系の結社にも属しているが、ホトトギス本体には投句したことがない。それはホトトギスの「家元制」が嫌いだからだ。私と同じころからホトトギス本体に投句している人は皆、ホトトギス同人になった。(20~30年間投句を続けないとホトトギス同人にはなれない。ホトトギス同人に推挙されることはたいへんな名誉で、叙勲と同じように祝賀パーティーを開く人が多い。俳句をやるにも、なかなか金がかかるのである。)

 ホトトギスと袂を別った水原秋桜子の俳句も私には「すごい!」とは思えない。彼は有季を守ったが、彼に倣った新興俳句運動は季語を捨ててもっと過激になっていった。無季不定形なんて、私にとってはただのザレ言である。

 (茶道華道の家元制は集金システムだ、あんなの芸術じゃないと白洲正子は言った。)


※今日、気にとまった短歌

  さびしさを吾子には抱かせまいとして痛めた手首耐えて抱く日々 (埼玉県吉川市)猫丘ひこ乃

祭りの露店(テキ屋)の存在意義

2015-07-20 06:28:37 | 文化

(露店。ウィキペディア「的屋」より引用。)

 神社の例祭からテキ屋が締め出されるようになって話題になっている。締め出されるのは、そこに不良たちが集まって気勢を上げるからだという。テキ屋はたしかに怪しい。テキ屋保護派は、子どもは祭りの夜のテキ屋から詐欺やインチキや裏切りを学ぶのだという。

 私がテキ屋にコノヤローと思ったことは2回。小学校3年生のころ、ヤドカリを売るテキ屋が店を準備していた。「坊や坊や、バケツで水を汲んできてくれたらヤドカリをひとつやる」という。苦労して水場と何回も行き来をして、そのあと知らん顔でヤドカリをくれない。くれとも言えず、コノヤローと思いながら帰った。

 もう一回は、焼き鳥の串のようなものを4本、テキ屋の親父が指の間に挟んで、当たりの串が引ければ景品を貰えるというものだ。一種の手品だから当然当たらない。それだけならよいのだが、(タネを見破られるからだろう)その親父は一回終わると子どもたちの頭を叩いて、もうあっちへ行けと言う。かなり痛かった。なにも叩くことはないだろう、コノヤロー。

 小学校4,5年生になると、テキ屋の手口がかなり分かってきた。ピストルのおもちゃをくれるという触れ込みで、ガムの山からアタリのガムを見つけるガム売りがいた。テキ屋は、「ほうれこれだ」と当たりのガムを見つけて、ガムの山に戻すのだが、そこは手品だからもう当たらない。高いガムを買わされることになる。

 私が取ったガムは、他のガムとは違って半分腐ったように融けていた。「おじさん、このガム変だよ」と私。おじさんは、「そういうのがうまいんだよ」という。「じゃあ、おじさん食べなよ、あげるから」と私。おじさんは食べられず、ごまかすのに必死である。「こういうのがうまいんでしょ、だったら食べなよ」と追い打ちをかける私。

(私よりももっと悪ガキがいて、金魚すくいのおじさんがちょっと横を向くと、金魚を手づかみで大量に盗ってしまった。50匹くらい。)


※今日、気にとまった短歌

  あこがれた制服を今着ているの私はあこがれられているかな (都立鷺宮高校)池田なつき