院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

芸能(芸術)が完成したあと

2015-07-19 09:47:47 | 芸能

(九州交響楽団。ファミ通.com より引用。)

 西洋クラシック音楽は、もうベートーベン、モーツァルトあたりで完成しており、それ以上やりようがない。あとは、映画音楽すなわち「エデンの東」などの伴奏音楽に発展したけれども、N饗はそれらを演奏しない。

 西洋音楽や黒人音楽がない交ぜとなって、1940年代からモダンジャズが出てきた。それらは従来の音楽とは似ても似つかぬもので、1960年代のマイルスデビス、ハービーハンコック、コルトレーンあたりで完成して、1970年代のジャズは現在もう残っていない。BGMで流されるのも1960年代のものだけである。

 一度完成してしまったら、それ以上、変わらず残るのが芸能の世界の常である。もう、何百年も前から「能」は変わっていない。というより変えてはいけない。面打ちは古い面をそっくりに写すのが役目である。囃子、舞、謡ともにいっさい変えてはいけない。

 このように、優れた芸能は完成したものだけを引き継ぐことになる。

 だから、世界中のオーケストラはベートーベン、モーツァルトなどを演奏する頻度が他を圧して多いのではないか?能もいまだに世阿弥の曲が演じられるのではないか?

 新作歌舞伎が見たくないのと同様、発掘された能の曲も見たくない。消えていったのには、それなりのワケがあるはずだから。

 俳句も芭蕉あたりに始まって、高濱虚子で完成した。戦後の新興俳句運動は別の新しい文芸を創造するのに失敗したとは言えまいか?。現在、無季不定形俳句を詠む人はわずかである。


※今日、気にとまった短歌

  三センチ詰めねばならぬズボン丈再び夫を立たせて測る (宇都宮市)佐藤順子

俳句の本質「存問」

2015-07-19 06:35:44 | 俳句
(角川書店刊。)

 俳句の本質を指す言葉として「存問」がある。「病人を存問する」というように安否を問うことである。

 この言葉は、高濱虚子が昭和32年12月29日の朝日新聞の「小俳話」というコーナーに書いてから有名になった。そこには「お寒うございます。お暑うございます。日常の存問がすなわち俳句である」とある。

 私の解釈では、日常の軽い挨拶だが、そこにも型がある。挨拶だからこそ型破りなのは危険である。たんに「お暑うございます」と言っておけば無難なのだが、芸がない。

 型破りになるかならないかギリギリのところで勝負をするから、俳句は面白いのである。

 これまでの私の代表作を3つ挙げろと言われれば、次の2句である。3つ目はまだできていない。

    夜振りの火二つに割れてゆきにけり

    手話の子の声なけれども息白し