(九州交響楽団。ファミ通.com より引用。)
西洋クラシック音楽は、もうベートーベン、モーツァルトあたりで完成しており、それ以上やりようがない。あとは、映画音楽すなわち「エデンの東」などの伴奏音楽に発展したけれども、N饗はそれらを演奏しない。
西洋音楽や黒人音楽がない交ぜとなって、1940年代からモダンジャズが出てきた。それらは従来の音楽とは似ても似つかぬもので、1960年代のマイルスデビス、ハービーハンコック、コルトレーンあたりで完成して、1970年代のジャズは現在もう残っていない。BGMで流されるのも1960年代のものだけである。
一度完成してしまったら、それ以上、変わらず残るのが芸能の世界の常である。もう、何百年も前から「能」は変わっていない。というより変えてはいけない。面打ちは古い面をそっくりに写すのが役目である。囃子、舞、謡ともにいっさい変えてはいけない。
このように、優れた芸能は完成したものだけを引き継ぐことになる。
だから、世界中のオーケストラはベートーベン、モーツァルトなどを演奏する頻度が他を圧して多いのではないか?能もいまだに世阿弥の曲が演じられるのではないか?
新作歌舞伎が見たくないのと同様、発掘された能の曲も見たくない。消えていったのには、それなりのワケがあるはずだから。
俳句も芭蕉あたりに始まって、高濱虚子で完成した。戦後の新興俳句運動は別の新しい文芸を創造するのに失敗したとは言えまいか?。現在、無季不定形俳句を詠む人はわずかである。
※今日、気にとまった短歌
三センチ詰めねばならぬズボン丈再び夫を立たせて測る (宇都宮市)佐藤順子