院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

土日に休めない職種

2007-10-14 07:33:39 | Weblog
 土日に休めない人は国民の13%だそうだ。遊園地、デパート、飲食業などである。

 そういう人たちを私は尊敬する。警察官、消防士、鉄道バス職員も、必ず土日に休めるとは限らないだろう。大変な仕事ばかりである。そういう人たちによって、わが国は支えられている。

 医療関係者は意外に土日に休める。日直、当直を分散しているからである。

 理容師、美容師も土日は休めない。むしろ書き入れ時である。

 土日の理容院は忙しい。次々と客が訪れる。ある時「毎日が土日のように繁盛するといいね」と、なじみの理容師に言った。そしたら、答えは意外なものだった。

 「毎日、土日のようにお客さんが来たら、体が持たない」ということだった。そうだったのか。理容院は土日で稼いで、平日はのんびりとやっているのだなと理解した。

 いろんな人が、いろんな時に休んで、なんとかわが国は繁栄と平和を保っているのだと分かった。

ゴルフのどこが面白いのだろうか?

2007-10-13 13:41:52 | Weblog
 ゴルフが大人気である。私はゴルフをやったことがないから、その面白さは分からない。

 朝寝坊のゴルフ好きの友人が、ゴルフの日となると朝4時から起きて嬉々として出かけていく。よほど面白いのだろう。

 劇作家の井上ひさしさんが言っていた。キャディーの女性に荷物を持たせて、自分は手ぶらでゴルフを楽しむのがに抵抗があると。でも、その井上さんはいざ自分がゴルフをやってみると、非常に面白くてハマってしまったという。

 そんなに面白いのだろうか?私はまだ怪訝である。面白いといっても草野球程度なのではなかろうか?

 草野球より面白いとすれば、それは賭けているからだろう。賭けていないマージャンはつまらない。ゴルフも賭けるから面白いのではないか?これはゲスの勘ぐりだろうか?

コンピュータ信仰

2007-10-12 13:16:27 | Weblog
 介護保険が普及してきた。利用者の延びのため財源をどうするか問題になっている。

 介護度の等級はコンピュータで一時判定を行う。コンピュータで計算するのだもの、統計学的な処理が加えられたり、補正が行われたり、とにかく人手では無理な複雑な計算をするものと思い込んでいた。そのプログラムは将棋やチェスのプログラム並に複雑なのだろうと考えていた。

 私は介護保険審査委員である。そのため、プログラムのアルゴリズム(計算手順)を見る機会があった。そこで仰天した。ものすごく簡単なプログラムなのである。

 調査員が調査した数十項目に重み付けをして、足し算するだけである。それなら電卓で足りる。パソコン好きな子なら小学生でも作れるようなプログラムである。

 役所は「コンピュータではじきだした結果ですから」と、クレームから逃れるために電卓でできる仕事をコンピュータに乗せたのではないかと勘ぐりたくもなる。

 庶民のコンピュータ信仰に乗じて、あのようなお粗末なプログラムで知らん顔をしているのではなかろうか。いや、役所の人自身、大半がアルゴリズムを見る目がないので、困るのである。

医者、看護師のマスク

2007-10-11 13:13:25 | Weblog
 大きな病院に行ったら注意して見てほしい。

 若い医者や看護師が紙のマスクをしていることが多い。これは衛生上の問題からではなく、7~8年前からの全国的な流行である。

 感染と関係ない場所や科でもマスクをしている。マスクを着けて歩くということは、覆面やサングラスをして歩いているのと同じである。顔や表情が見えないから、不気味でさえある。

 なぜこんなことが流行するのだろうか?ひとつには、若い医療者が自分の童顔を見られたくないということがあるのかも知れない。

 感染と関係ない場所では、医療者は利用者に顔を見せるべきである。

医者の指

2007-10-10 13:14:53 | Weblog
 私は医者は指輪をしてはいけないと思っている。

 医者は触診をする。そのときに指輪は手の感覚をにぶらせる。

 医者が指輪をしていて、仕事上のメリットは何もない。だから、私は指輪をしない。

 女医で爪を延ばしている人がいる。これも診察上、邪魔である。爪はきれいに切っておくべきである。

 指輪をした医者、爪の長い医者はプロ意識に少々問題がある。

 学生のころ外科の教授に、直腸内指診は手袋なしでやれと教わった。匂いはじきに消えるが、手袋をしていたために直腸がんを見逃した汚名は一生消えないということだった。

 とても手術がうまい先生だった。

「世の中」の定義

2007-10-09 12:23:32 | Weblog
 私の親はよく「世の中」という言葉を使った。幼い私は「世の中」という意味がよく分からなかった。

 私は聞いた。「世の中って地球全体のことなの?それとも宇宙全体のことなの?」

 親は「人の世の全体のことなのだ」と答えた。「人の世」と言われても、まだ意味が分からなかった。

 「世間様」と言われれば、まだ分かったかもしれない。でも、それでも幼い私には漠然としか分からなかっただろう。

 「地域」という言葉の意味が未だに分からない。「地域」という用語は、大人の私でも分からないのだもの、誰もその定義を知らないのではないか?

子供を侮るなかれ・その4

2007-10-08 08:19:42 | Weblog
 今回もお祭りの露店の話である。

 子供のころはヒマだし、お祭りが始まる前からうきうきしていたから、まだ明るいうちから露店が設営されるのを見ていた。

 ヤドカリを売る露店が設営されるのを見ていたら、そこのおじさんが「ヤドカリを一匹あげるから、水を汲んできてくれ」という。

 私はヤドカリ欲しさに、遠くの井戸までバケツで水を汲みに行き、何往復もした。子供にとっては、かなりのきつい労働だった。

 水汲みが終わったら、そのおじさんは知らん顔なのである。ヤドカリをくれると言ったのはウソだったのか?

 まるで私なぞいないかのように、おじさんは設営を続けていた。私は抗議することができなかった。

 一匹のヤドカリをケチる大人がいる。無償で子供に労働させる奴がいる。私はこのとき、世の理不尽ということを学んだ。

子供を侮るなかれ・その3

2007-10-07 06:57:59 | Weblog
 小学校からの帰り道に、隣町の子供と喧嘩になった。とっくみあいこそしなかったものの、激しく口喧嘩した。

 互いに捨てぜりふを残して別れたが、そのあと遠くから隣町の子供が小石を投げてきた。それが私の頭に命中した。頭から出血した。

 顔中、血だらけになって帰ってきた私を見て親は驚いた。すぐ私をかかりつけの医者に連れて行った。

 出血のわりに傷は浅く、縫合するまでもなく消毒するだけで済んだ。頭皮は他の場所に比べて出血しやすいのである。

 一方的に石を投げてきたという私の発言に、その医者は耳を貸そうとしなかった。どうせ子供の言っていることだ、互いに石を投げ合ったのだろうと、親に言った。

 私は、「どうせ子供の」という言葉にカチンときた。事実、一方的に石を投げてきたのは向こうなのだ。

 今思うと、その医者は無神経である。私のプライドを傷つけて平気なのである。

 その医者は腕がよく、とても繁盛していただけに、子供の前での不用意な発言が惜しまれる。

 まだ国民皆保険制度が発展途上にあった。そのころの医者はものすごく儲かったという。その医者も蔵を建てたと聞いた。

 その後、その医者がどうなったかは知らない。もう半世紀近く前のことだもの、たぶんこの世にはいないだろう。私の頭の傷はまだ残っているが・・・。

子供を侮るなかれ・その2

2007-10-06 13:48:27 | Weblog
 子供のころお祭りが楽しみだった。露店が出るからである。

 中にチューンガムを売る露店があった。包んだガムが山積みにしてあって、当たりのガムを引くと、近くに並べられた玩具のピストルや模型がもらえるという。

 露店のおじさんが引くと必ず当たりが出る。当たったガムをもとの山に戻して、さあ引けとおじさんは言う。確かにそこに置いたガムなのに、それを子供が引くと外れになっている。

 何かの手品なのだろう。ガムの山の中には当たりは含まれていないと考えられる。

 私はガムを引いた。むろん外れだった。仕方ないから、ガムだけでも食べようと思ったら、そのガムは腐ったようにとろけていた。

 「おじさん、このガム、変だよ」と言うと、おじさんは「そういうガムが一番おいしいんだよ」と言う。

 子供だと思ってテキトーなことを言いやがってと私はムッとした。そこで反撃に出た。

 「そんなにおいしいんなら、おじさんにあげるから、食べてみな」と私はガムを差し出した。

 おじさんは、言を左右にして結局そのガムを食べなかった。

子供を侮るなかれ・その1

2007-10-05 13:11:54 | Weblog
 小学生のころ工事現場の近くを通りかかった。足場が組んであり、左官が高いところで仕事をしていた。

 そのとき左官がコテを地面に落とした。私を見つけた左官は、コテを拾って投げてくれという。そのようにしてやった。左官はコテをナイスキャッチした。

 そのとき左官は何と言ったと思われるだろうか?

 「ありがとう」ではなく、「猫よりましだ」とぬかしたのである。相手が子供とみて侮ったのだ。

 子供にもプライドがある。助けてもらって礼を言うどころか、皮肉を言うとは何ごとかと私は憮然とした。

 その左官は子供を侮った見返りとして、半世紀近くたった今にいたるまで、こうした公の場所で批判にさらされ続けることになるのだ。

サラリーマンの税控除

2007-10-04 13:14:58 | Weblog
 サラリーマンの基礎控除は38万円で、一律である。サラリーマンといえども、仕事によって必要経費はさまざまだから、一律の控除というのは合理的でない。(例えば仕事にどうしてもスーツが必要な人と、必要ない人がいるはずである)。

 私の恩師(大学准教授)は学者で、本を大量に必要とする。その本も洋書など値段の高いものが多いから、本代は莫大になる。そこで恩師は税務署にかけあって、本代は学者の必要経費であると認めさせた。

 恩師がやり手だったこともあるけれども、言われればそのとおりに認めてしまう税務署も税務署である。

 税務署にかけあわない学者はこれまでどおり、自分のサイフから本を買わなくてはならない。これは不公平である。

 税務署は何が控除できて、何が控除できないかの基準をもっていないか、またはもっていても曖昧なのである。これでは恣意的と言われても仕方がない。

 学者のみなさん、本代は控除されますから、どんどん申告しましょう。

赤い羽根への疑念

2007-10-03 19:35:58 | Weblog
 赤い羽根の季節である。「赤い羽根」は秋の季語にもなっているほどの歴史がある。

 私は赤い羽根を胡散臭く思う者である。

 赤い羽根の募金協会は、すべてボランティアでやっているのだろうか?事務局に専従の職員がいるのではないか?

 専従の職員の給料はどこから出すのだろう?たぶん、募金の上前をハネるのだろう。

 だとすると、赤い羽根で食べている人がいるわけで、その人たちの生活を保障しなければならない。

 よって赤い羽根は永遠になくならない。同じようなことを去年の今頃書いた。私の赤い羽根に対する疑念がなくならない限り、また来年も書くだろう。

畏友・滝川一廣君

2007-10-02 14:43:47 | Weblog
 滝川大正大学教授から彼の編集による「そだちの科学」9号が送られてきた。彼とは10代からの友である。

 この本の冒頭に滝川による道案内的論文「視聴覚障害とそだち」が載っている。

 滝川は昔から本当のことしか言わない人物で、その上、ものごとの表層をなでるだけではなく、本質にまで深めて考察することを得意としていた。

 上述の論文も、そうした彼の傾向がよく表れている。

 彼は「障害」とは何かと考察している。「障害」と言うと「正常ではない」と考えられがちだが、彼の視点はちょっと違う。

 例えば聾は耳が聞こえないので音声言語を内言語として持てないが、手話言語を内言語としている。そのため聾は「障害」というより社会的マイノリティーであるだけであって、健聴者が大部分を占める社会では<不自由さ>や<生きにくさ>がある。

 もし聾者がマジョリティーである社会なら、手話言語を持たない健聴者のほうが<不自由さ><生きにくさ>を感じるだろうと彼は言う。

 事実、聾者が「ろう文化宣言」というのを出して、自分たちはなにも不自由は感じないと宣言したことがあるそうだ。

 一方、盲は聾とは少し違って、「盲文化宣言」というのを出していない。だから、彼は「盲と聾とをいっしょくたに論じるな」と言う。(そのように私には聞こえる)。

 発達過程で親と共通世界を「障害児」なりに獲得していく道のりを無視して、親と違うから「障害」、「障害」と言い立てるのはいかがなものか?せっかく手話という内言語を見につけているのに、人口内耳を取り付けて音声言語の側にひっぱるのは、それはそれで問題があるのだそうだ。

 知的障害や広汎性発達障害にも同じようなことが言えるという。どんな障害でも障害者の発達過程と内的世界に目を向けなければ本質はつかめない滝川は言いたいのではなかろうか?

 彼は明確には言っていないけれども、「障害」は科学的な用語ではなく、行政用語である。保護や補助をするためには、「劣っている」、「可哀想である」という国民的な合意が必要で、そのために「障害」という名称を行政が付けた。それで話が単純化されてしまい、「障害」の緻密な考察がやりにくくなってしまった、と彼は訴えているように思えた。

パソコン雑誌の読者欄

2007-10-01 13:19:55 | Weblog
 パソコン雑誌の読者の欄に、パソコンとはおよそ関係のない記事が載った。

 投書子曰く、むかし売っていたローカルな清涼飲料水の名前を忘れた。缶に太陽の絵があったと思う。

 次の号でさっそく返事があった。その清涼飲料水は某地方限定で売られていたものであり、名称を「タヒボバビータ」という回答だった。

 そのまた次の号で別の読者から、それは「タヒボバビータ」ではなく、正しくは「タヒボバビーダ」である、という投書があった。

 パソコンの記事より、こうしたやりとりが大変面白かった。そのため、私はこの雑誌を買い続けるはめになった。

 同時にこういう記事を載せる編集者のユーモアに感心した。