(1)「センバツ」が終って、今年は遅咲きの桜も7分咲き、高校野球と同じ満開まであと一歩というところだ。近年の高校野球は傑出した超高校野球プレーヤーがいなくなった分、今年はチームとしてまとまった総合力の高いチームが多くなって、その分波乱の少ない大会前から総合力評価の高いチームが順当に勝ち上がっての落ち着いた(地に足が着いたというか)ゲームが多かった印象だ。
その象徴が優勝した大阪桐蔭高校だ。いきなりチームの中心4番打者がゲームで骨折してその後のゲームを欠場しながらの長身本格派投手を中心とした総合力で優勝を勝ち取った。
高校野球での投手(エース)、4番打者の存在感は大きく、そのどちらかを欠いての戦力ダウンでトーナメントを勝ち上がることは難しいのが通例で、今年はひときわチーム総合力、選手層の厚さ、充実が目を引いた。高校野球を「教育」というなら、それらしいチーム総合力の大会だった。
初出場の健大高崎高校は、打つだけではない機動力を生かした攻撃力がすばらしくベスト4まで勝ち上がり、チーム総合力で闘う今回の「センバツ」のチームの特徴をよく表していた。
(2)もうひとつ余り話題にならなかった(意図的にしなかったかだ)が、本塁ベースをホームインの選手が踏んだか踏まなかったか(つまりベース・オーバーラン)で、抗議権(remonstrative rights)のない監督が審判に抗議するという前代未聞(多分)の場面があった。
写真で見る限りでは、ホームインの選手のツマ先はあきらかに本塁ベースの先に着地していたが、カカトの部分がベースに触れているか、いないか微妙な判断のものだった。同写真では同時に本塁ベース上の選手のその足元をしっかり見届ける相手チーム捕手の視線も写しだしていた。その捕手のアピール・プレイ(appeal play)で本塁ベースを踏んでいないと判定されて(一番身近で見ていた主審判定)、得点が認められなかった。
高校野球では大会規定で抗議権は主将(captain)、プレイ選手当事者に限られて、監督には抗議権はないとされている。(報道) 今までも極めて少ない事例だが、監督がベンチで帽子を脱いで一礼して選手を審判のところへ向かわせてプレイ判定を「確認」することは希に見たことはあるが、監督がプロ野球まがいにグラウンドに入って審判(主審)に抗議することなどあったというまず記憶にはない。
(3)野球のルールは「人が人を裁く」不条理(unreasonableness)の中で成り立っている原理原則のスポーツだ。人(審判)の判定に異議を唱えていては成り立たないスポーツだから、本来「抗議権」など存在してはならない訳だ。
職業とするプロ野球の審判でもあきらかな誤審はあり、それを認めるケースもあるくらいだから、高校野球で完璧など求めようもない原理原則だ。そもそも抗議権を認める大会規定など必要もないことだ。
高校野球監督は当然よく知っているルールで、同監督は「冷静さを欠いて我を忘れた」と反省しているが、それは審判も同じだった。認められていない監督の抗議など即、シャットアウトすべきであった(バックネット裏の大会役員の指摘でわかった報道)。ルールに公正、公平な大会運営、言うならそれが「教育」だ。
プロ野球では審判への抗議もファンを沸かせるパフォーマンスだが、高校野球は無縁のものだ。同監督は高校日本代表監督の経験もあるベテラン監督だが、仮に審判技術に物言いでもあったとしてもしかしそれは「野球の原理原則」の中で理解すべき不条理でのことだ。
仮に審判が同監督(経歴)の抗議に遠慮があったとしたら、それこそ問題にされるべき判断というものだ。そしてメディアもまた同じだ。
その象徴が優勝した大阪桐蔭高校だ。いきなりチームの中心4番打者がゲームで骨折してその後のゲームを欠場しながらの長身本格派投手を中心とした総合力で優勝を勝ち取った。
高校野球での投手(エース)、4番打者の存在感は大きく、そのどちらかを欠いての戦力ダウンでトーナメントを勝ち上がることは難しいのが通例で、今年はひときわチーム総合力、選手層の厚さ、充実が目を引いた。高校野球を「教育」というなら、それらしいチーム総合力の大会だった。
初出場の健大高崎高校は、打つだけではない機動力を生かした攻撃力がすばらしくベスト4まで勝ち上がり、チーム総合力で闘う今回の「センバツ」のチームの特徴をよく表していた。
(2)もうひとつ余り話題にならなかった(意図的にしなかったかだ)が、本塁ベースをホームインの選手が踏んだか踏まなかったか(つまりベース・オーバーラン)で、抗議権(remonstrative rights)のない監督が審判に抗議するという前代未聞(多分)の場面があった。
写真で見る限りでは、ホームインの選手のツマ先はあきらかに本塁ベースの先に着地していたが、カカトの部分がベースに触れているか、いないか微妙な判断のものだった。同写真では同時に本塁ベース上の選手のその足元をしっかり見届ける相手チーム捕手の視線も写しだしていた。その捕手のアピール・プレイ(appeal play)で本塁ベースを踏んでいないと判定されて(一番身近で見ていた主審判定)、得点が認められなかった。
高校野球では大会規定で抗議権は主将(captain)、プレイ選手当事者に限られて、監督には抗議権はないとされている。(報道) 今までも極めて少ない事例だが、監督がベンチで帽子を脱いで一礼して選手を審判のところへ向かわせてプレイ判定を「確認」することは希に見たことはあるが、監督がプロ野球まがいにグラウンドに入って審判(主審)に抗議することなどあったというまず記憶にはない。
(3)野球のルールは「人が人を裁く」不条理(unreasonableness)の中で成り立っている原理原則のスポーツだ。人(審判)の判定に異議を唱えていては成り立たないスポーツだから、本来「抗議権」など存在してはならない訳だ。
職業とするプロ野球の審判でもあきらかな誤審はあり、それを認めるケースもあるくらいだから、高校野球で完璧など求めようもない原理原則だ。そもそも抗議権を認める大会規定など必要もないことだ。
高校野球監督は当然よく知っているルールで、同監督は「冷静さを欠いて我を忘れた」と反省しているが、それは審判も同じだった。認められていない監督の抗議など即、シャットアウトすべきであった(バックネット裏の大会役員の指摘でわかった報道)。ルールに公正、公平な大会運営、言うならそれが「教育」だ。
プロ野球では審判への抗議もファンを沸かせるパフォーマンスだが、高校野球は無縁のものだ。同監督は高校日本代表監督の経験もあるベテラン監督だが、仮に審判技術に物言いでもあったとしてもしかしそれは「野球の原理原則」の中で理解すべき不条理でのことだ。
仮に審判が同監督(経歴)の抗議に遠慮があったとしたら、それこそ問題にされるべき判断というものだ。そしてメディアもまた同じだ。