いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

裁判制度の不連続性。 no continuative of judical regime

2015-03-05 19:24:25 | 日記
 (1)社会正義のパラダイム(paradigm)としての司法が迷走しているのではないのか。地下鉄サリン事件で平田信被告(長期逃亡後逮捕)が1審判決で9年の懲役刑を受けたことが、同じ事件にかかわって事件当時逮捕され10数年前にすでに6年の懲役刑を受けていた元信者との量刑に不公平(injustice)があると控訴していた裁判で2審高裁は、元信者の6年懲役刑の判決は10数年前のもので平田信被告の裁判はその後裁判員裁判が導入されて裁判制度が変更されてからのものであり、比較対象のものではない(趣旨)としてこの訴えを退けた。

 これまでの裁判は事件性が同じものについては「判例」(judical precedent)を重視してそれを逸脱しない(する場合には相当の理由)判決を判断基準としてきた。

 (2)最近の裁判員裁判でも死刑判決に対して、上告を受けた最高裁では「判例」に比較して死刑相当とするだけの妥当性、根拠理由に欠ける、説明不十分として相次いで無期懲役刑に減刑した判断を示している。

 冒頭の高裁の判断は裁判員裁判制度導入による制度変更により判例継続性をとらずに、10数年前の当時の裁判官主導裁判との量刑比較には制度基準の違いがあることを強調したものだ。

 (3)裁判の審理は裁判官主導による裁判審理であろうと裁判員を含めた審理であろうとそれぞれの観点、視点、論点、判断、側面の違いはあっても、事件に対する被告の責任相当については普遍的な(generally)ものであり、裁判制度の違いによる司法歴史の「区切り」で裁判判断、判決基準に不連続性(no continuative)が生じ、正当化されるものではない。

 高裁がこれまでの上級審の最高裁の判決基準と異なり、10数年前の同じ事件関与で受けた元信者の判決量刑に比較して平田信被告がその役割、役目、悪質、影響力が違うとの根拠理由、判断があったならいざしらずに、当時とは裁判制度が異なる歴史的司法背景を理由に判例主義に従わないあたらしい判断を示したことは、公平、公正な判例主義判決の普遍性の妥当な理由要件を欠くものである。

 (4)むしろ事件当時に逮捕されて裁判審理を受けた元信者と事件後身を隠して10数年間にわたって逃亡の末逮捕された平田信被告との社会に与えた脅威、悪意、悪質性の違いが量刑に反映されたとしたら、それはそれで同じ事件に関与したとしても判決量刑に違いが生じても公平性を欠くものとはいえないものだ。

 (5)むしろ問題は「裁判員裁判による死刑判決」に上告を受けて最高裁が「判例」をもとに異議を唱えて(相当の理由、説明不足)減刑したことは、それまでの裁判官主導裁判に市民感情を取り入れるという市民参加の裁判員裁判制度導入の趣旨、理論に合致しない判断だ。

 裁判員裁判の判断、判決基準こそ、司法の英断趣旨からそれまでの裁判官主導裁判との歴史的制度変更の「区切り」があって当然ではないのかと考える。

 (6)司法が裁判審理への市民参加を認め判決に市民感情を取り入れることを決めた段階で、それまでの裁判官主導裁判との「違い」を認識、考慮するものでなければ制度導入、変更の意味、意義はない。

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