昨日 「府中運転免許試験場」 に着いたのは7時25分、二階で受付が始ったのは7時45分、検査開始は9時過ぎとのことだから、少し時間を持て余してしまった。
それではと、一階に降りると大勢の人が免許証更新の手続き中だったが、帰る時も同じように人が途絶えることも無かった。 このような光景を見ていると、ふと私が免許を取った頃を想いだした。
私が免許を取ったのは昭和36年 (1961) 5月のことで、22歳の時だった。
当時は免許証を持っている人は少なかったが、それも当然、今のように車が一般社会に普及していなかったから必要の無い免許証だったのだろう。
私は会社のある上司から 「これからは必ず車社会となるだろうから、君も早く免許証を取りなさい」 との言葉を信じ、月に四千円を一年間貯めて、それを基に免許証を取ることにした。
当時、私の勤務地は立川だったが、教習所は田無市 (当時) の 「田無自動車教習所」 なので私の日課は驚くような毎日を過ごすことになった。
朝は自転車で東村山の家を出て勤務地の立川へ。仕事が終るとそのまま自転車で青梅街道を通り田無の教習所へ。教習が終るとまた自転車で家に帰る。このような毎日が免許証を取るまで続いた。
だがこのコースを概算するとかなりの距離数になるが、その頃は何とも苦にならなかったのは、やはり若かった勢いが後押ししてくれたのだろう。
自転車を使ったのは電車だと時間も掛かるし、この教習所が駅から遠かったので、私なりに考えた方法だったようです。
しかし、今でもそれを想い出すと 「良くも頑張った」 と、自分を褒める気持になるくらいのハードな毎日だった。
だが免許証を持っていても車は無いから運転はできなかったが、やっと昭和41年に自家用車を持つようになった。
その頃は普通車を持つなんて夢のようで、私の始めての車はあの 「スバル360」 の軽自動車だった。
その後は免許証のお世話になったが、昭和41年にある事故を起こしたが、それ以降は無事故、無違反で現在に至っているのは幸いなことだった。
試験所内で更新する人たちを見ていると、女性の方が多いことにも気付いた。私が免許所を取った頃は、教習所でも女性の練習生は居なかったし、免許更新時、女性の方を見なかった時代もあったから、今とは全く違った時代だった。
今では多くの人が免許証を持ち、自家用車で運転するのが当たり前のことだが、私が免許証を取った頃にはこのような時代が来るなんて夢にも思わなかったことでした。
おそらく12月には免許証更新のため、また 「府中運転免許試験場」 へ行く予定だが、それまでも何とか安全で穏やかな運転に徹するつもりだ。
だが、事故多発で高齢者が悪者扱いになるのは断じて容認できないことです。高齢者の皆さん、そのな虐めに惑わされないように安全運転を心がけしましょう。
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