諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

数時間後に亡くなる人。そして片目の真鮒。【水の森公園にて】 その3

2014年06月26日 06時12分43秒 | 霊体・恐怖
続きます。

眷属についてですが、正直まだ考えが練上がっていません。眷属について語っている人も少ないようですが、直接、人に関わってくる存在の筈です。

私は神が人間に宿ることは無いと考えておりますが、眷属は宿ると考えます。その理由については何れまたお題を改めて書きたいと思っております。

さて、私のブログを読んでいる奇特な皆さんは「叢塚(クサムラヅカ)」をご存知でしょうか。実は私も名前は知っていましたが、何と飢饉等によって大多数の人が亡くなられた場合の供養碑でした。

飢饉といえば天保の大飢饉が有名です。当時の仙台藩では30万人の餓死者を出しています。

「仙台62万石」なんて言われていますが、本当に62万石だったら徳川家に警戒なんかされません。実際は仙台から石巻までの貞山堀が完成してからは、実質250万石ありました。

徳川幕府が260万石ですから、ほぼ互角の石高です。だから警戒されていたんですが、この飢饉の時は100万石しか取れなかった。だからは米どころ故、30万人の餓死者を出したんです。凄い悲劇ですわ。

現在の仙台市の人口は105万人前後ですが、そのうち30万人が餓死したとなると想像を絶します。3.11の東日本大震災で亡くなった方たちの数でさえ愕然としているのです。多分、当時の人口は現在より少いはずですから、その深刻さは津波以上だったでしょう。しかも餓死です。空腹に苦しんで死ぬのです。仙台には餓死した方々の念は根強く残っていると思いますね。

「叢塚」で検索すると仙台の叢塚がトップでヒットするんですが、それだけ仙台には被害者は多かったと言う事だと思います。

そしてこの水の森公園にも叢塚が存在します。その叢塚は明治15年当時、コレラで亡くなった人達の供養を目的としたものです。

明治13年にもコレラ蔓延し、全国で16万人以上が発病。うち10万人以上が亡くなっていますが、明治15年時の仙台でのコレラ患者は920名。うち410名が亡くなっているそうです。

仙台には水の森公園以外にもコレラで亡くなった方たちの鎮魂として叢塚が存在しますが、その場所は元々コレラ患者を隔離していた施設があった場所です。コレラ騒ぎが収まった後、その施設は焼却されています。コレラ菌の蔓延を防ぐ為にです。

水の森公園の叢塚に近い台原にもコレラ患者の隔離施設があり、その施設で亡くなった方たちの遺体を焼却した場所が、水の森公園の叢塚の場所だった様です。

これは未確認の話ですが、仙台のコレラ患者の数はそんなものではなかったとも聞いています。そして焼却せず遺体をそのまま埋めたとの話もあります。手が回らずです。中にはまだ生きている患者も生き埋めにしたとの話もあります。そしてその埋めた場所は水の森公園周辺とのことです。

この話は多分、焼却場があった事から尾ひれが付いて語られたデマだとは思いますが、もし本当だったらどうでしょう。

仙台藩は一万数千人の犯罪人を処刑しています。勿論、犯罪は罰するべきですが、1万人以上の処刑は異常です。今では考えられない程の軽い罪でも処刑してきたと思います。その仙台藩の流れから、明治の時代も十分ありえる話だとと勘ぐっちいますね。

まっ、それは兎も角、水の森で焼却された276名のお骨はどこに行ったのでしょう。その点についてはどこにも記載されてないです。

これは私の想像ですが、隔離施設も焼却場もコレラ菌の蔓延を恐れ焼却されたのです。そうなるとお骨はそれぞれの家のお墓に埋葬されず、水の森公園のどこかにまとめて埋められた可能性は高いと思います。

先に述べた1万人を越す処刑者の骸もどこに行ったのか不明です。そして「警察官と錦町公園の幽霊」でも書きましたが、錦町公園は元々は墓地です。ちょっと掘り返さば墓石とお骨がザクザク出てきます。仙台とはそう言う街です。十分考えられると思います。


つづく。






コメント
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