続きます。
戦国時代、本当に成功した者は少ない。織田信長、豊臣秀吉、明智光秀、武田信玄、上杉謙信、そして伊達政宗等々、大抵が失敗者です。
軍師で考えても山本勘助、黒田如水等々、大抵は失敗しています。理由はやはり欲です。欲があるから争う。そして勝者は一人。大抵は負ける訳です。
しかし、この戦国時代にとことん波乱に巻き込まれながら生き抜いた武将がいます。否、実際は武将でも大名でもないタダの文化人なのですが、余りの波乱で武将に思われていると言った方が正解でしょうか。
その人の名は細川幽斎。ウキペディアでは織田信長に従い丹後宮津12万石の大名になったと書いていますが、これ嘘です。12万石を貰ったのは息子の細川忠興。幽斎は信長から京都・長岡の土地、家康からは3000石を貰っていたが、大名と言う程の勢力ではない。あくまでも文化人としての意地を通した人です。
細川幽斎の肥後54万石の始祖なのは間違いないですが、肥後には行った事が無い。大名と振舞った事はない。古典、茶の湯、料理、歌、礼式、音楽に生きた風流人。それでありながら類まれな戦略家でもあった。オールマイティとはこの人を言うのだと思います。
この細川幽斎ほど好かれ尊敬された人物は戦国時代にはいないでしょう。幽斎のお陰で信長、秀吉、家康が天下人になれた。細川護煕も総理大臣になれた(そりゃそうだ)。幽斎は私の理想。人殺しの家系を乗り切った私の指標です。
どうしてそう言えるのか、今から書きたいと思います。
幽斎は第十二代将軍・足利義春の近臣・三淵晴員の子として産まれます(細川家から三淵氏へ養子に行って、幽斎が細川に戻ってきた)。ここで注目点は幽斎の母親は足利義春の側室だった事です。これはどういう事か。幽斎は将軍である足利義春の子である可能性があるのです。
平清盛の母親も白河天皇の側室だった事が知られてますが、昔は側室に子供が産まれた場合、お家騒動になるのを恐れ身篭った側室を家臣へ娶らせる風習があったようです。私は幽斎も足利義春の子だと考えます。
幽斎は腹違いの弟と思われる十三代将軍・足利義輝に仕えます。義輝は塚原卜伝に剣術を習った猛将です。抜刀将軍と言われてた。それで将軍家を意のままに操ろうとした松永久秀と三好三人衆に疎まれ、奇襲をかけられる。義輝は畳に数本の刀を刺して孤軍奮戦するも討ち死してます。
この場合、通常の家臣は主君の後を追って自害するか、適わぬのを承知で討ち死にするのが常ですが、幽斎は義輝の弟の足利義昭を伴って逃亡しています。何としても足利の家を守ろうとしたのです。この行動から幽斎は足利の血筋だと私は思っています。
続く。