続きです。
織田家の家臣となった幽斎は先に臣下となっていた明智光秀の与力に。そして信長の命により息子の忠興と光秀の娘・玉(後のガラシャ)が結婚。光秀と親族になります。
この忠興と玉は似たもの夫婦です。共に父親に従い波乱を見てきたのが災いしたのか、人の命を何とも思わない魔物と化していたのです。
或る日、大工が細川家の屋根を修理していて足を踏み外し落ちて来た。食事中にそれを見た忠興は太刀を取り大工に近づき一刀両断。そのまま何事も無く食事を続けます。妻の玉も意に介さずです。
それを見た幽斎は震撼しました。自分の息子夫婦が魔物となっていた事に。そして忠興の将来を悲観します。息子は生き残れないと。
私、思うのですが幽斎は人殺しの家系の生き延び方を知っていたように思います。人の恨みを買う魔物では生きて行けない。人の命を軽んじれば自分の命も羽の如しになると。
そこで幽斎は忠興に歌や茶道を勧めます。風流というものを教え込みます。忠興は「自分の様な者が歌や茶道などをやれば、父の名声が落ちます」と言って拒みますが、「お前如きの歌で評価が落ちるほどの父ではないわ」と言い切る幽斎。それで忠興も歌や茶道の世界に踏み入ります。
風流とは「人生とは何ぞや」を学ぶ道でも有ります。忠興も短気な性格も落ち着きが出て、人の命を軽んじなくなって行きます。そして細川三斎を名乗り三斎流茶道の開祖とまでなった。晩年は父・幽斎に風流を教え込まれた事を感謝し、80数年の人生を全うします。
細川家が現在までお家が続いているのは、幽斎の風流の心が子々孫々と伝えられたからだと私は思います。
さて、幽斎の波乱はまだまだ続きます。そう、本能寺の変です。上司であり長年苦楽を共にしてきた友でもある明智光秀が主君である信長を討った。そして幽斎の動向に注目が集まります。
息子・忠興は岳父の光秀の陣に加わり、軍法を学んでいます。明智家と細川家は一心同体と世間から思われている。当然、光秀は最低でも細川家と筒井家は自分に味方してくれるものと考えていました。
幽斎には文化の面で多くの武将が弟子になっていた。信長を嫌っている大名は多い。京都の税の免除を発表し、民衆には応援されている。幽斎が味方に付けば自分に味方する武将も出てくる。既に朝廷から征夷大将軍に命じられた。自分の天下は幽斎に掛かっている。
しかし幽斎は動かなかった。実はここまでのストーリーは細川藤孝です。信長の喪に服して出家して幽斎を名乗ったのはこの時からです。
更に秀吉は「信長は生きている」と吹聴。あの恐ろしい信長の生存しているのであれば、光秀に呼応する者はいません。光秀は13日天下で命を落とします。
光秀は使者や手紙で再三自分に尽く様に呼びかけます。大阪、福井、兵庫の領地を約束しても幽斎は動きません。そりゃそうです。幽斎は欲がありませんから。
しかし、光秀との友情が有ります。幽斎も悩んだ筈です。ここで光秀に付いたら滅んでいた可能性の方が高い。信長が生きているとの噂が流されたので。出家したのは誰の味方もしない見事な意思表示だと思います。
当然、秀吉も幽斎を評価します。自分が勝てたのは幽斎の判断も一因している。一目置くようになります。
例えば秀吉は征夷大将軍になりたくて足利義昭へ自分を養子にする様に命じるも、義昭は拒否。秀吉は激怒します。その後、義昭は寂しい生涯を終えますが、幽斎が義昭の葬儀を願い出ると棺桶職人一人のみとの約束で許可しています。他の者が願い出れば当然拒否するどころか、その者を処罰する筈です。その点も幽斎の存在にに重きを置いていた証明と言えます。
続く。