続きです。
その後、細川幽斎は同僚の明智光秀と共に足利義昭をつれて逃亡生活に入ります。松永久秀・三好三人衆にとって足利義昭は邪魔者。命を狙っていますので。
逃亡では行灯の油にも事欠く始末。幽斎は神社の行灯の油を盗んでもいます。宮司さんに見つかり哀れんで油を恵んで貰っています。惨めな逃亡生活です。
そこで幽斎は光秀と相談。文化人大名の朝倉義景を頼ります。朝倉義景も足利幕府の文化性に傾倒していましたので歓迎してます。でも義景は足利義昭を連れて京都に入る気が無い。そこで光秀の勧めで織田信長を頼る事に。
信長は快諾。足利義昭を連れて京都へ。途中、滋賀の六角氏・佐々木氏と抗戦するも破り、朝廷にも認められ、義昭は十五代将軍に任命されます。
気を良くした足利義昭は信長を副将軍に任命するも信長はそれを拒否。管領職も断ります。信長は義昭の下に付くつもりは無かった。十五代将軍は飾り。絵に書いた餅。実権は信長が握っていた。それは幽斎・光秀も納得していた。
しかし権威を得た義昭は納得できず増長します。昔の将軍職に戻したいと考えた。そして信長に不信感を持つ。義昭は全国の武将に織田信長討伐の密書を送る。武田信玄を始めとする多くの大名が信長討伐に立ち上がる。
それには流石の幽斎も付いていけなくなった。将軍の位に就けてもらった信長に対する義昭の不義理を感じた。何度も諌めたが駄目だった。無念だった。苦難を共にして尽くしたのに「お前は信長に心を通じているのだろう。お前はもう信用できない」とまで言われたのですから。弟かも知れない義昭に。
明智光秀は完全に愛想をつかし義昭を見限り織田信長に付きます。幽斎は諦めず諫言を続けます。勝龍寺城に篭り中立を保って。
武田信玄が北条氏と合流して出て来た。義昭も挙兵した。更に信玄は三方ヶ原の戦いで信長の同盟者である徳川家康を蹴散らした。多くの武将が武田信玄に味方する気配を見せている。信長側の旗色が悪くなった。それでも義昭に諫言を続ける幽斎。
そしたら何と武田信玄が急死。武田軍は退却。今度は義昭が絶体絶命となる。信長が義昭を許す筈が無い。義昭は京都を出て宇治槇島城に篭城するも降伏。
幽斎は豊臣秀吉を通し義昭の命を織田信長に懇願する。信長は幽斎の頼みを聞いて、義昭は備後の国に流されるだけですんだ。
これは文化人としての幽斎の価値を信長が評価したからだと思います。安土文化の構築には信長や秀吉に無い光秀や幽斎の文化人としての知識と教養が必要。小物の足利義昭の命など幽斎達の価値に比べれ採るに足らんと思ったのではないでしょうか。
その後、信長は幽斎に使いを出して家臣になる事を依頼。幽斎はそれに応じます。
信長は義昭は許しても義昭の密書に呼応した大名達は許さなかった。浅井・朝倉、石山本願寺、毛利、武田を攻撃します。
戦術家としても優れていた幽斎も信長に付いて数々の武功を上げる。その労に信長は応え、息子の細川忠興に丹後12万石を与えます。幽斎には与えずです。これはどう言う事なのか。
多分、幽斎は恩賞を拒否したのだと私は考えます。幽斎は最後まで足利義昭を見捨てなかったが、義昭が敗れてから信長に付いた。義昭の手前、自分だけ恩賞は受け取れない。足利将軍の家臣としての自負が有った。仕方なく信長は息子の忠興に恩賞を与えたのではないでしょうか。
その点も幽斎の美点です。幽斎は欲が無い。そして最後まで義昭を見捨てなかった。早々に義昭を見限り信長に付いた光秀よりも忠義心がある。信長はもそう思ったのではないでしょうか。
つづく。